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あるべき論からのアプローチ

2020.09.24

 

◎あるべき論からのアプローチ
 これは難しいな、一見不可能、たまにそういう算数の問題を出会す。見た目は簡単そう、シンプル過ぎるほどシンプルで、これは簡単だろ、と思って解いてみる。あれ、どれも使えない。情報が極端に足りない。ないのだ。そういう問題にたまに出逢う。成蹊中だったかな、その最後の問題、6番、最近そういう問題に遭遇した。見るからにシンプル、簡単な図(ダイヤグラム)と一行もない簡潔過ぎる問題。こういうのが一番難しい。情報がほとんどない。そこから解く。ナンプレの難しいのと、似ている。あまりにシンプル過ぎて解のとっかかりがない。何度か考え直したが、見つからない。20分ほど考えたか。わたしは、たいてい瞬時に糸口を見つけるものだが、それが見つからない。えっ、なに? だめだ、見つからない。それでもう遅いので寝ることにした。朝目が覚めると頭の中でもう問題が蘇っていた。というか夢の中で問題を解いていた気がする。唯一考えていたのは、「差」だった。「差」は算数の糸口の事が多い。グラフを見直す。まさか、これ? しかし、他にない、やってみる、半信半疑、なんと答えが出てきた。
 わたしの製作したレジュメに、開成、早稲田中、麻布、灘などの第6問に絞って、解明したシリーズがある。あれを書くときは、いつも問題を考えていた。わからない、不可能だ、いつもそんな思いが襲ってきた。しかし、ちょっと待てよ、たかが小学生にそんな不可能な問題を解かせるだろうか、解けるように作られているはずだ、そう思い直してまた考える。すると不思議なことに糸口が見つかる。解けたら、すぐ忘れないうちに解説を書く。レジュメを作る。そういうことをしているうちに30年分ほど解いた問題が溜まった。

 問題がなかなか解けないとき、勘違いなのかと警戒するのか、間違いないと進めるのか。
 これは実力のある者とない者とでまた違ってくる。実力のない者は、間違いというものにそもそも気がつかない。考えていることがだから自分の判断が正しいと思いがちである。根拠がないのに自信を持つ。実力のある者はいろいろと気になることがあるし、それまでの経験でそう簡単に解けたという経験もないから、慎重である。すんなり解けても何か見落としていることがないのか、飽くまで不安である。
 よく試験が終わったとき、「できた」という者が落ちて、「できなかった」という者が受かってた、というのは、この辺の背景がある。
 慎重な者は、あまりに簡単に解けると「そんなはずはない」と疑い、何か勘違いしているのではないかと疑う。
 よく使う論理に、次のようなものがある。
 例えば、小石川の問題を解く。難しい。こんなのが解けるのかと思う。しかし、小石川は公立だろ、公立なら節度がある、公立の選抜試験に「普通の子どもに解けない、不可能な問題をそもそも出題するであろうか、いや普通に考えたら解ける問題を出すのではないか、解けないのは、不可能だと思うから道が塞がれているのではないか、もし普通の子に解けるように作られているとしたなら、必ず普通の子にもわかるような鍵、糸口があるに違いない」。そう考えるとまた心がワクワクしてくる。それまで見えてなかったものが見えてくる。要は、「あるべき論」への頭の持っていきかたである。
 最初から不可能だと決めつけるか、どんな問題も解けるように作られているはずだと考えて糸口を、探すか、である。
 このことは、難関資格試験ではよくあることである。えっ、見たこともない、わたしがカウンターを喰らったのは「否認の登記」だった。人は見たこともない概念に出会うともう理性が飛ぶ。詐害行為取消の登記原因というのがあるが、これは民法を知っていれば見当はつく。後でわかったことは、破産否認の登記の効果はどうも詐害行為取消の登記と似たようなものらしい。しかし、本番では無理だ。不可能だ。少なくともわたしはあの時はそう思った。難関試験というのは、実は不可能と思われる問題にどう処するかなのだと後年気がついた。
 何もかも知っている人間を求めているわけではないはずである。網羅的知識人間を求めているはずはない。クイズ王のような知識しかない人間を判断を要する資格に求めているわけがない。
 絶対不可能な問題を出して選抜する、そんなことはありえない。論理的に考えうる、普通の過程を追えば解ける、そういう問題を出題するのが、この世の常識であろう。

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