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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

都立高とは日比谷・西・戸山・青山・駒場・新宿・小山台をいう/自分ができると錯覚する子たち/勉強難民の溢れる街

2017.11.27

 おはようございます。11月も早終わらんとしております。

 まずご注意を2点、冬期申込は11月で終了です、12月月謝は、11月までにお支払いください。

 受検本番まで2か月ほどとなりましたが、実際の勉強できるのは、冬期の終わる1月8日までです。その意味は1月9日になってみればわかります。作文が書けないとこのときに気がついてももう何も打つ手はない、ということです。つまりもはや打つ手がないのです。1月9日から本番前日までひたすら解き直しに専念するだけです。ほかに打つ手はないのです。打つ手なら小5に竹の会に来たときからいくらでもありましたし、竹の会は手を打ってきたはずです。それを先送りしてきたのならもはや打つ手なしということなのです。

 小6を見ていて感じるのは、「絶対に受かってやる」という、湧き起こるような「気」というものが感じられる子があまりいないということですか。受験というのは、「絶対合格する」という気持ち、情念というものが結果を大きく左右します。もちろん「気」だけで受かることもない。「気」は必要としても、やはりこれまでにこなしてきた勉強量がものを言う。今「失速」気味なのは、過去の積み重ねてきたはずの勉強量の絶対量が明らかに不足している子たちである。課題を中途半端にしか出さなかった子たち、いやそれどころかほとんど出さなかった猛者もいますが、書き直した量、解き直した量も限りなくゼロに近いとしたら、今冴えない「気」が漂うのもしかたない。受検とはリアルである。「やったかやらない」、それだけが斟酌される。個々の感情論など一切無関係である。憧れだけで行けるわけがない。それに見合う血の出るような勉強に耐えた者のみが受検では評価される。怠け者には受検は最初から相手ではなかったのである。本番では「もしかしたら」はないし、例えば、過去問練習でまともな点数がとれなければ本番の時だけとれるということは絶対にない。

 ◎東京は勉強難民の溢れる街

 東京に住んでいる小学生、中学生のいる家庭の80%は勉強難民なのではないか、最近富みにそう思うようになった。勉強難民とは、塾に行っているかどうか、とは一応関係のない話しだけれど、塾に行かない家庭の子のほとんどが難民なのではないか。塾をつまみぐいする家庭も難民化しているのは当然として、そもそも塾に行っているのに難民になるというのはどうしたものか。かつてはわたしは大手大手と大手を崇拝する親たちの選択に無名の小塾の悲哀を味わったものであるが、そうした親たちの判断が悉く裏目に出て、結局は自分の子どもの将来をどうにもならないものにしてまっているという現実を幾度となく見せつけられるに及んで、自業自得、いや自分の権威主義的な思考癖で大切な我が子をバカにする判断をして見事にバカを完成させていることに、ただただ呆れて世の中の現実というものの残酷さを知らしめられるばかりである。その判断というのは、安易な大手塾選択、いや地元塾に通っていたという子にもろくなことになっていない子ばかりで、別に大手だけというわけではないのだが、塾そのものに行かせない、そういう不作為も結局は子を取り返しのつかないバカにしてしまうということにも鈍感な親たちが多い。塾に行かせられないのなら仕方ないが、だから季節講習だけ受けるということも結局は無駄であったことはいずれわかることである。中には塾に行かない代わりにとそれのほうがカネがかからないということなのだろうけれど、通信なんかを受けさせる親もいるけれど、結局ただのあがきにすぎないことは、竹の会の入会試験を通して見てきたことではある。わたしが東京の小学生、中学生のあまりにもの低学力にあきれ、ただただ竹の会の子たちはいくらできないとわたしが嘆いてもさすがにここまでひどくはないし、そもそもこうなるまで放っておく、親や塾の態度に何かが欠落していると憤りさえ感じてしまう。

 親は自分の子の内申が8割基準にあると安心すべきではない。そういう子のほとんどが竹の会の入会試験では「合格」をとれないのである。竹の会の入会試験はいわゆる知識を試す偏差値試験ではない。分数の計算も必要ない。ただ文章の意味するところを読みとり、運用するだけのことを求めている。小4早期に満点をとる子もいれば、小5、小6でも不合格の子がたくさんいる。大手に1年、2年いたというふれ込みでも不合格ばかりだし、塾に行ったことはないという小4が満点をとったりもする。小学生の子だとそこそこ学校の成績がいいと、親も本人も「できる」と錯覚しやすい。親はけっこう安心してしまっていることも多い。しかし、竹の会の入会試験がその子の本質的な能力というものをあからさまにしてしまう。過信しているから、桜修館だ、小石川だ、などと平気で言うのだろうけれど、親も子もまったくわかっていない、甘い、底が浅いというしかない。

 中学生だって変わらない。内申で4平均とか、3平均でも親はそれほど深刻ではなく、平気で都立に行けると信じている。塾に行く、ということの意味がまるでわかっていない。高校受験で成功するには、小6からすでに厳しい訓練が始まっている、そういうことがわかっていない。中2の終わり頃、中3になって、「そろそろ受験なので」と塾を探すほどの脳天気ぶりである。中学生で計算ひとつまともに正解を出せない、英語の基本のルールを体が反応するほどに身につけていない、ということのもたらす深刻さを知らない。塾に行けば、そうして「知識」を学べば「できるようになる」と信じて止まない親があまりにも多すぎる。

 中学というのは、高校受験に対応するには、模試の始まる中3の7月までには、中3の履修事項どころか、最低でも高校受験の基本レベルの力を備えてしかるべきなのである。そこから逆算していけば自ずと何をいつまでに終わらせていなければならないかがわかる。中2の夏には遅くとも中3までの英語は終わらせ、遅くとも中3数学はスタートしなければとても中3の夏に受験レベルにもっていけるものではない。とすれば中1、中2夏までの勉強の内容も自然決まってこようというものだ。特に、英語は中1の勉強量もさることながら基本訓練が勝負である。こういう意識で取り組む塾でなければダメだ。数学習っている、英語習っている、はけっこうだけれど、ただテキスト使って授業受けて知識を提供されて、期間だけ「いた」というだけのバカな生活をしているから、アホになるのだ。高校受験という本番の日に、どう力を発揮するのか、というところから常に今何をやるべきかを問い、訓練してくれる塾を探しなさい。わからないところを習う塾なんてカネも時間も無駄だ。どぶに棄てるようなものだ。

そもそもが小学の段階でしっかりと訓練をしてこなかったからいけないのです。塾というのは、一人の個人をよくよく観察して、その子にとって何が大切かを判断し、その大切なものを、それは見えない力ですが、そういうものを醸成させてあげる、そういう手助けのできる塾でなければならないのです。塾に行きながら、小学6年にもなって、まともに計算もできない、割合もわからないバカに育ててどうするのです。大手に行けばそういうものがつけられると信じているのがおめでたいというしかない。かつて竹の会の小6がたまたま知り合いの親に誘われて某大手の模試を受けて見たら2000人中の12番だったという実話がありましたが、竹の会出身の子たちが他所の塾だと「できる子」にされたという話しならいくらでもあります。

 東京には勉強難民が溢れている。そうして親たちは権威的なものに盲従することから自然情念的に発生する根拠のない信頼を支えに勉強難民を社会難民として吐き出す手助けをするのである。誠に哀れな、当の子どもには悲惨な社会のしくみであることか。

 ◎12月から当分の間は募集はありません。

 ◎田舎にはたわわに柿の実がしなっていた、あの光景があった

  あるお母さまからいただい柿の風情が心を和ませる

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