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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

7月03日夏/日比谷高校/小石川中等/桜修館中等/区立九段中等/その他

2018.07.03

 おはようございます。久しぶりの更新です。いよいよ7月に入り、ほんとうに勉強らしい勉強ができる7月、8月期間に突入しました。この期間の勉強の絶対量がおそらく合否を占う、もっとも信頼できる根拠になる。それは過去の合格者に旗幟鮮明に現れるところです。どんなに優秀であっても夏怠けた者が受かった例しがないのです。逆に、凡人が、夏余人の及ばぬほどの勉強をした結果、合格したという例なら確かにあるのです。実は、竹の会の合格者を見てみると、不思議な一致点が見えてきます。この夏の勉強を休むことなく最低でも一日7時間をこなしたこと、これがまず共通点です。7時間やったという子の中には、例えば、お盆に1週間実家帰省したとか、さらになにやかやで勉強しない日がある、そういう子は、確実に落ちています。共通点の2つ目は、課題を完全に「やりきった」子が受かっている、という事実です。これには全く例外がありません。徹底して、課題をやる子というのは、毎週必ず規則的に出していること、作文なら書き直し、レジュメなら解き直しを必ずやること、特に、作文の書き直しは、20回に及ぶという、これです。この2つにおいて、他と出色です。今年落ちた小6を見ても、落ちた子と受かった子の分岐の色分けはこれらにおいて鮮明です。

🔴夏期用お試しテキストの会員無料配布について

 夏期限定のお試しテキストを夏期申込の小3へ小5対象に、初回のみ限定で無料配布します。 続編をご希望の方は実費(税込1080円)にてお取り寄せもいたします。 ただし、夏期外部生は、夏期中のみ注文に応じます。

 こういうテキストは必ずしも必要ではありませんが、この度、会員の親御さんから、夏に家庭でやるのにいいものはないか、ということで、ご紹介を兼ねて、無料配布することにしました。竹の会のレジュメをやっていれば、特に、必要でもないのですが、夏の時間のあるときに、それがもし役に立つのなら、いいのか、と思い、軽い気持ちで、配布することにしました。

 もちろん竹の会のレジュメだけで十分ということは変わりません。

🔴高校入試が、中2からでは、間に合わないわけ

 平成10年ごろまでの中学生の親というのは、実に、牧歌的で、高校入試のために塾に行くのは、中3からという親ばかりだった。もちろん河合塾などに中1から通う熱心な生徒もいた。当時、突然中1の母親というのから電話があって、「先生、息子が塾に行きたいと言っている、私は中3になってからでいいと思うのですが、先生はどう思われますか」、これである。別に竹の会に入りたいという話しではない。どこやらの塾に行きたいが、とわたしの意見を求めてきた、ふざけた親がいくらでもいた。 ただ当時でも高校受験に成功したのは、中1からいた子が圧倒的に多い。 中3からはない。中2からならどうか、やはり失敗する可能性が高い。今年落ちた生徒は中2からですが、特徴は、やはり徹底した部活だった。平成22年だったか、富士の推薦合格がいたが、中2からだった。その女子はきた時から9科目中5が4個、4が5個だった。竹の会でさらに内申を上げたけれど、もし一般だったら、落ちていたかもしれない。 なぜ、中2からだと遅いのか。 これは、話しが長くなる。 まず高校入試というのは、中3の8月には、もう模擬が始まる。つまり、7月までには、中3の範囲、いやそれ以上に、入試の基本は、終わらせていなければならない。 とすれば、中2の夏にはもう中3の勉強を始める必要がある。英語なら中3で習う文法はもちろん、英文解釈も始めておく必要がある。 こうして、中2の夏前には、中1の範囲を終わらせておかねばならないことになる。 さて、さらに遡れば、ことは、小6の2月から、猛然と中1の勉強を開始して、春には、もう中1数学の半分以上は終わらせていなければならない。 この時、方程式で躓くかが分岐点になる。 それを分けるのが、小4早期からの訓練にある。 おわかりであろうか。 竹の会の指導は、受験に特化しているわけではない。将来どう転んでも必要となる、基礎学力、基本勉強習慣、勉強のスタンス、こういったものを徹底して訓練しておく、のである。受検というが、竹の会では、まず、基礎学力を徹底して鍛え上げることに全力を傾注する。まず思考から作り上げるという発想である。竹の会では、私の発明、開発した、画期的な算数指導法を体系化して、ここで、子どもたちは、これまでのやり方では想像もできない、効果を実感しながら、力をつけていく。もちろんわたしの高度な指導技術も忘れてはなるまい。三十有余年に渡って指導を実践してきた、わたしにしかできない、数々の機微に満ちた指導の勘、スキルがある。 子どもたちに、どう語れば、伝わるか、わたしは長い経験から学んできた。端的に、簡にして要を得た言葉を選び、子どもの反応を見ながら、タイミングよく、言葉を切っていく。なによりも、指導の極意は、子どもを段階的に理解のステージを高めていくことにある。子どもがわからないというとき、どの段階、どのステージにあるかだ。わからないのは、理解のステージが想定した問題の埒外にあるからである。このようななときに、子どもに解き方を、教える塾のバカ講師、家庭教師がいるわけで、問題は、その子のステージをあげることなのに、ステージはそのままに、より高次な問題を、理解させようとする。バカは救いようがない。昔からのやり方を何の疑いもしないに、踏襲する。 そうではない、プロは、あるステージの基本を作り上げてやる。ある問題がわからないというとき、それが、現段階より高度な段階にあるならば、その問題を教えるのではなくて、段階をあげる指導をする。そうすれば、問題は、自然、わかる。竹の会の標榜する指導というのは、これである。問題そのものを教えるのではなくて、その拠って立つ、土台を作ってやる。想定された段階にある問題は、自分で解く、解ける、これが基本である。指導者のやることは、段階を、上げていくこと、指導とは、まさにこれにかかる。竹の会の指導の方法は、まず、段階ステージを作っていく、すると問題は自ずと解ける、これが子供たちが自信をつけていく過程にほかならない。わたしのやることは、子どもたちの中に、思考の枠組みをを作り上げていくこと、思考枠組みのステージをさらに高度に仕上げていくこと、これである。

 だから、小5では、こういう枠組み作りの時間がない。小6でも間に合いますか、という質問が、いかに虚しいか、間の抜けた問であるのか、お分かりになるであろうか。 悲しいかな、世の母親の頭からは、これまでの古い塾のイメージしかない。塾は、知識をもらうところ、そして「わからないところ」を教えてもらうところ、なんとも牧歌的な、思考のかけらもない、塾観である。ここでは、塾で思考を作るという発想そのものがない。というか人がやるから自分もという、日本人に特有なのかはしらないが、あの行列に並ぶのと同じ、何か話題になると、一斉にに集まる、あれである。 竹の会では、授業というものがない。竹の会入会一年目の親だと、もう「指導」という言葉に慣れてきて、普通に使うようになる。 いや竹の会創設期の頃は竹の会も試行錯誤、暗中模索していて、当然最初はあたりまえのように「授業」をやっていた。この授業がわかりやすいと評判になってたちまち人が集まった、のは確かである。それくらいわたしの授業は人気があった。「わかりやす」と「や面白い」というのが、生徒が親に話す感想らしい。竹の会で、授業がなくなって、何年か後だった。わたしが、時々授業をやるということがあった。すると親たちから、「今日は講義がありますか」と電話がくるのである。体調が悪いけど無理してでも行く、という。

 竹の会開設当初、授業の噂は凄まじく、最初3人から始めた塾が、たちまちいっぱいになってしまった。あの頃、熱心に教えれば教えるほど、生徒の成績は振るわなかった、ある時から、教えないで考えさせた。そうしたら、いい点数を取ってきた。なにもしないで放っておいた方が良かったのだ。ただそう単純ではない。三年目ぐらいから、オリジナルテキストの製作に情熱を燃やした。このオリジナルテキスト時代は10年ほど続いたか。平成10年から世はパソコン時代へと進んでいった。ワープロ専用機時代から、パソコン時代へ、わたしも徐々にシフトした。デルのパソコンからだった。レジュメを作り始めたのは、ワープロ専用機時代からであった。何台も潰した、平成17年、いよいよ本格的にパソコンを用いて、高校入試のためのレジュメ化を開始して、三年かけて、平成19年に完成。竹の会のオリジナルテキスト時代は終わった。時は、公立中高一貫校ブーム、最初は、試作時代、とにかくいろいろなレジュメを作った。レジュメに芸術の域を持ち込んだ。受検のためのレジュメ製作は、平成24年を開始とする。ようやくパソコン、特に、数式ソフトを自在に操れるようになり、思い通りの、芸術的レジュメを作れるようになった。最強のプリンタとの出会い、スキャニングなどの技術の進化が、私のレジュメ製作に革命をもたらした。今やわたしは子どもの病状に合わせて、思い通りの処方箋をかき、思い通りのレジュメを製作することができる。 子どもたちを診断し、わたしの処方箋で、治癒に導くことができる。

🔴課題をパーフェクトにこなした者のみが合格した、という事実

 どんなに優秀でも、どんなに模試の成績がよくても、なぜか、課題を蔑ろにした者が受かってない。このデータの示すものは何か。 課題をやる、とは、家庭学習をしっかりとやる、こういうことではないか。おそらく課題をやらなかった子は、空いた時間、勉強していたわけではない。何か勉強以外のことに時間を使っていたのであり、家庭学習はしていない。要するに、勉強時間の総量が絶対的に足りないのだ。 課題をやるというのは、新課題と解き直しを含めれば相当な時間を要するはずである。 課題をやらなかった子の中には、特に、習い事もないという子もいた。いったい何をしているのか。勉強はしていないことだけは確かである。何をするのでもない。何もしていないのである。 課題をやりきった子が合格したのが、今年の3名である。桜修館合格の女子は、ほぼ完璧にこなした。解き直し、書き直しも、すさまじいものだった。富士合格の2人のうち、1人の課題の取り組みもすごかった。もう1人はそこまではなかったが、課題はよく出した。 落ちた子たちと比較すれば、ほとんど出さない子たち、出すには出すが、間隔が空きすぎて、遅れに遅れた子たち、あるいは小6後半から全く出さなくなった子、小5のときからパラパラと出したり出さなかったりで、思い出したように出してくるという子もいた。小6になってもなかなか出せない、こういう子たちの中には、習い事、稽古事、と何かやっていたのかと思われるが、 わたしにはわからない。そして、本番はいつも正直であった、 親たちが、子が、どう考え、どうやってこようが、それで、合格しようと思うかどうかにかかわりなく、勉強量の多い子、それは言い換えれば、課題をきちんとやった子が合格していった。それが、神さまの示した、飽くまでも冷厳な結論であった。 なぜ落ちる、入会試験では、優秀と期待もされたのに、なぜ落ちる、なぜ、失速してしまう、課題を出さないという子は、結局勉強量が足りない、に尽きる。だから直前に伸びない、失速する。直前のあの時期に、何をやっても、虚しい、空振り感、上滑り感、もうどう足掻いても、あの時期は、そういう人たちには、焦りと失速がもたらす諦念が どんよりと心を支配する。

🔴送り出したときの、あの覆い被さるような不安の正体

 私はこの子の真実を知らない。 すべて報告された事実だけ。 わたしが過去問を試して、実感したのではない。 わたしが、過去問を採点して、弱点を判断したのではない。 わたしが、数学を試していない、英語を試していない。わたしが用意していた過去問が、部活で何週も流され、うやむやにされてきた。過去問は家でやり、それて終わった。 わたしは、結果報告しか知らない。 本番前の日、わたしに えも知れぬ不安をかきたてたのは、わたしが、わたしが、この手で確かめていない、これである。 自分流、自分勝手にやれば、わたしのコントロールの埒外にある。もはやわたしは、第三者、傍観者にほかならなくなる。 わたしの手から離れた受験、 家庭で過去問をやり、母親が採点し、わたしに、「80点ぐらい」と報告する。 いやもっと前に、わたしが用意した過去問を悉く流したこと、部活でよく遅れたこと、わたしは、わたしの指導が先送りされるたびに心が沈む思いを、してきた。そういうことが一気に不安となっておしよせてきた、 そうなのだと思う。 わたしに仕事をさせない親、家庭がある。しかし、 何もかもわたしの指示を仰がねばならない。親。がやれば、必ず失敗する。 戸山合格者は、わたしの完全コントロール下にあり、わたしの指示が100%機能した。 母親、いや父親も、全てをわたしに任せた。 親が、割り入れば、どうなるか、そんなことわかっている。 親の暴走が破滅に直結する。 突然、親が勝手に、模試を受けさせる。わたしの判断はない。結果がいいと報告してくる。悪いとなにも言ってこない。 とにかく、学校説明会とか、やたらいく。そして 得た知識をありがたがる。 親はいい時のことばかり、都合のいいことばかりを報告してくる。悪いことは、たまたまとか、例外とか、普通はないように思い込みたい。 しかし、塾の先生は違う。悪いときのことを基準に対策を想定する。最悪の場合を考えて行動する。親は都合のいいことしか、塾の先生には知らせてこない。 だから、親の言うことはそのまま信用できない。 親主導の受験が失敗することが多いのは、この理由による。 他所の塾なら、好きにやればいい。しかし、竹の会では、素人が口出しすれば、確実に、失敗することを知らなけれならない。 しかして、何故に、このような親の独断専行がまかりとおったのか。子の親に対する依存度の強さ、そういうものが、心の支えとなってしまったとき、わたしにはもう口をはさめないということである。様子を見守るしかないこともある。それがいい方向に行くことを願って。適宜、強制することなく、助言して様子を見るという対応も仕方なかった。心の優しい、素直な子と、熱心な母親が、頑張っているのなら、見守るしかなかった。 えも知れぬ不安の正体、本番に送り出したときに、わたしの心を覆った、怪しげな靄の正体をわたしは直感的に畏れた。そしてやはり確実にその靄は牙を剥いて襲いかかってきた。

🔵故郷にはわたしの青春があった

 わたしの生まれた町、別府。わたしが少年時代を駆け抜けた町、別府。中学は一年とちょっとだけ宮崎県の延岡に父親の転勤で転校して、いたことがある。あの旭化成の工場の街である。中学2の一学期に故郷別府の中学に舞い戻り、晴れない日々を過ごす。高校は県下の御三家といわれた進学校に進んだ。多感な高校時代を過ごした。父親に反抗し、退学しかけたこともあった。柔道、空手、新聞部、とにかく何か毎日が満たされぬ心を抱えて生きる、そんな日々だった。 修学旅行は、国立コースの5クラスだけなかった。だから私立7クラスと就職1クラスは東京に行った。だからわたしには、中学の修学旅行の思い出しかない。中学のときは、京都、奈良、大阪に六白七日、といっても列車で二泊。わたしは問題児(不良)ばかり集めた班の班長。担任の仕組んだことだ。中3ではクラスの万年2番。学年2番を取ったことのある秀才になかなか勝てなかった。中3.最後の試験で、初めてクラス1番になり、学年550人のトップクラスに躍り出た。 当時の中学も高校も男は坊主頭で、学生服、格好も何もあったものではない。中1の時、後から思い出すと、記憶に残る、淡い思いを寄せた女子が2人いた。わたしは転校生だった。同じクラスの女子。話をまともにしたこともなかった。いつか田舎の田んぼ道で、その一人とで会った。母親と二人連れ、微笑みながら、母親に何か囁く、母親がにっこりわらう、田舎者のわたしには、眩しいお嬢様だった。それから見ていない。もう一人はなぜかいつまでも覚えているけれど、もちろんほとんど話したこともない。ただ転校したあと、いつまでも心になぜか残っていた。それだけの話である。今はどうしているのかな、延岡にいるのだろうか、時々、思い出す。中学3年の時、クラスにマドンナがいた。才色兼備である。彼女は、高校の同級生と結婚したとか、後に風のうわさに聞いたことがある。

 高校の時、わたしは、いつも心が晴れなかった、どんよりとした心、晴れない心、そんな三年間だった。高校出て、高校の時に、心に残る人はいたのかもしれない。淡い思いを、抱いて、わたしは、一人寂しく、卒業した。今、思い出すのは、小学校の時の同級生の顔ばかり。みな淡い思い出ばかりです。 高校出て、独学で、受験勉強した。免許は、高2の時に、自動二輪、卒業の時に、大型トラック、を取った。京大受験を志す、が、父親と折り合いが悪く、家を飛び出す。東京と横浜間を毎日大型トラックで、輸出貨物を運んだ。9月のことだった、急に、勉強が気になり、故郷に帰る。京大受験のために勉強を始める。が、失敗。また、父親と喧嘩、家を飛び出して、今度は、東京で、ダンプを運転する。また、9月、故郷に帰る。もう後がない。受験まで、5か月。九州大学の法学部にかける。11月だったか、全県模試を受けたら、番外だった。わたしは、何をやっているんだ。中学の時の秀才が、わたしは、何か、無性に腹が立った。とにかく腹が立った。 だからただもう勉強したのだ。父親が転勤で母と赴任して、実家には、祖母と弟だけ、わたしは初めて勉強に打ち込めた。心が安らいだ。数学I、IIBは、Z会の解説付き問題集を使う。苦手かつ難関の数学だった。ひたすら読んだ。英語は、原仙作の英標、赤尾の豆単。単語は1万語は完ぺきに暗記した。古語2000は適当にやっただけ。山川の日本史用語集、世界史用語集はほぼ完ぺきに暗記しきった。数研の生物問題集を少し、やったのはこれだけだった。過去問も問題集も何もやってない。国立一期校の入試は、3月の3日、4日、5日の3日間にかけて行われる。発表は、3月15日ごろ、西日本全域にテレビ中継された。わたしは、大分市の映画館から母に結果を聞いた。「おめでとう、たけちゃん」、母の嬉しそうな声が、今でも聞こえてくる。泣いた母と祖母。わたしは、あのいつもわたしを覆い続けてきた、あの晴れない気持ちから、少しだけ解き放たれことに気がついた。 初めて漱石やらの小説を毎夜明け方まで読んだ。そうだ、あの時から、わたしは、本というものをほんとうに心から読めるようになったのだ。あの頃は、大宅壮一が好きだった。専門書は、刑法なら、団藤重光、民法なら、我妻栄の時代だった。刑訴なら平野、手形法なら三ケ月、商法なら鈴木竹雄、たいてい、東大の先生でした。岩波文庫は、よかった。政治学、初めて丸山真男に出会う。受験勉強では有名だった。刑事政策、社会政策、心理学、破産法、いろいろやった。経済学は、マルクス派の先生に習ったけど、ケインズの近代経済学が、主流なのだと後でわかった。 大学の時、アルバイトといえば、家庭教師ですよね。わたしは、ダンプの運転をやりました。現場監督が、わたしの運転ぶりを見て、「学生さん、なんか本職のごつあるな」と驚いた。 とにかく日当が半端なかった。 大学は、六本松の教養部で、一年半、残り二年半は、箱崎キャンパス、いわゆる本学で過ごした。単位は、二年間でとってしまった。 就活はやらなかった。住友銀行、三菱電気の二つしか誘いがなかった。あと大日本火災が、卒業後、内定者が病気で欠員になったということで、電話で誘いがあった。 断って司法試験をやることにした。55年に初めて短答式試験に合格、論文で失敗した。そのころ、たまたま頼まれた家庭教師が、評判になり、たくさんの人からオファーがきた。ほぼ毎日仕事で埋まった。 竹の会前夜のわたしがいた。

 東京の渋谷でわたしが塾を開くことになろうとは、誰が予測したか、わたしにもわからなかった。 今、故郷を思う。あの頃の晴れない私が、淡い恋心を秘めて過ごした、あの頃のわたしが、故郷の町にいた。 一人泣きながら山道を彷徨った高校時代、志高湖までの道はわたしの哲学の道、歩きながら、生きることを考えた。もう何度登ったか、乙原の滝を抜けて山を越えて行く、山上湖、志高湖。春は、ワラビ狩りをした。生きる苦しみを忘れてワラビ狩りをした。帰りは、いつも国道を延々と歩いた。歩いていると忘れることができた。 岩山に登り寝たこともある。大蛇に遭遇し、転げ落ちたこともある。道端の草、食べられるのがある。幼い頃覚えた知識、草から酸味のある水分をとった。 故郷の山々、昔は、わたしの逃げ場だった。 母と祖母、二人はもういない。故郷にはもういない。誰もいない。淡い恋心は少年時代のままに胸を熱くするけれど、もう昔の少女はいない。 故郷は、わたしの駆け抜けた青春の舞台、 辛い、暗かった、晴れない気持ちの行き場を求めて、もがいたあの頃、わたしの青春時代、わたしの故郷別府、わたしを覚えていてくれるだろうか。

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