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9月1日心機一転、台風と残暑と柿と蜜柑の秋、心新たにして時の機微を感じとる/都立日比谷と小石川、桜修館、九段に捧げる日々

2018.09.01

 おはようございます。わたしには長い8月でした。9月に入って早々非常に強い台風が列島に向かって突き進んでいるのが不気味です。この台風が残暑を吹き飛ばしてまた災害の爪痕をもたらすのかと思うと暗鬱たる思いです。秋はわたしには奈良の柿と熊本、和歌山、愛媛などの蜜柑、大好きです。毎年11月に訪れる京都の紅葉は永観堂でした。東福寺は中国などの観光客がもはや群衆となって埋め尽くされとても行けません。もう京都はだめかなと思っています。北陸は永平寺に一度行ったことがありました。琵琶湖の辺にある長浜市を抜けて福井市まで北陸本線、帰りは長岡市周りでし新幹線でした。だからまだ金沢には行ったとがありませんし、新潟も知りません。思いはあるのですが、どうしても京都で落ち着くところがダメですね。

 🔵転移という概念について

 前に行なった学習が、あとの学習効果に影響を与えること。あとの学習を促進する場合を正の転移、妨害・抑制する場合を負の転移という。 大辞林の定義 です。すでに転移の概念については、かつて香川大学教育論文集において、初めて、教育について用いられた転移概念というものに出会ったが、転移と言えば、癌と短絡していた、私には、この転移という言葉が、教育用語として使われていたことに、新鮮な驚きとして心に響いたことを覚えている。論文集からは、転移という言葉の定義は当たり前としてなのか、一言も書かれていなかった。

 転移とはなにか。例えば、割合の仕組みを学ぶ。この時、具体的なものから、抽象的な枠組みとして、理解した者は、この抽象的フレームを思考の核として考える、であろう。これを転移という言葉で、呼ぶことができる。転移できない子というのは、具体的なものから、抽象化して頭に収納できない、ということである。そういう子には、具体的な問題ごとに、同じ割合の問題でも、みな違って見える。だから一字一句同じ問題でないと、解けない。 知能を測る尺度に、これは私の考えであるが、指示したことを指示した通りに再現できるか、ということがある。知能の高い子は、一度説明するだけで、その何たるかを理解し、抽象化という収納形に変換して、脳に収めてしまう。そして必要な時に、収納された抽象的フレームを適用する。つまり転移させることができる。何度言っても、不完全にしか再現できない子というのは、物事を具体的な、レベルでしか頭に収納できないから、頭の中に収納しきれない。おそらく頭の中は、似た問題、類似点を探すことで、いっぱいになっている。大手の子たちは、公式を覚えて当てはめるという理解の仕方をするから、公式という、ある意味、抽象化をしてはいるが、これも公式が当てはまらないと、途端にパニックを起こす、対処できない、類のものである。そもそも算数を公式を覚えて当てはめるものとしているところから、頭の固いバカになるしかない、宿命がある。

 子どもを指導するという時、指導のコンセプトは、具体的な事実の抽象化をいかにして子どもの頭の中に実現するか、にある。思考力を鍛えるというのは、抽象化して頭の中で、概念操作できる、ような頭にする、ということである。 子どもの頭というのは、具体的にしか考えられない、段階にある。抽象化の能力は、知能の多寡にかかわるけれど、算数の能力が高い、そういう子というのは、別に、抽象的な概念を知っているから理解できるというわけではなく、仕組みのフレームを直感的に理解する能力において優れている。それが証拠に、算数の能力が高い者には、国語の読み取りが、幼稚な子が多い。言葉を知らない、読み書きの訓練を全くおざなりにしてきた子でも算数の理解は鋭いという子ならよくいた。

 確かに、勉強の基本は、算数ではない。むしろ国語である。読み書きが基本である。読むとは、声を出して読む、音読の訓練である。書きとは、字を正確に書けること、そして漢字を覚えること、である。音読は、意味がわからない漢文を昔素読した、あれである。ただ読む、声を出して読む。何度も繰り返し読む。毎日読む。雨の日も風の日も読む。書くとは、毎日書く、丁寧にゆっくりと書く、書写する、意味もわからずに書く、無心に書く、これが、勉強というものの目覚めとなる。わたしは、小5の時、国語のガイドの文章を書き写すことに夢中になったことがある。勉強とは無縁の小学生活を送ってきた私の転換点であったかもしれない。この頃、字の酷さにも自覚して丁寧に書く練習をするようになった。小6の時、勉強している同級生に、「何をしているのか」と尋ねたら、「テスト勉強」と返ってきて、意味がわからなかった人間である。いかに勉強と無縁であったのか、わかろうというものである。通知表は、図工が、なぜか6年間5、しかし他の科目は、2か3という酷いものであった。学校から帰ると、近くの山や川などに飛ぶように遊びに行った。勉強なんかまともにしたことがない。父親に、毎日ノルマを課されて、やらないから、いつも殴られていたが、懲りることなく、勉強はそっちのけで遊んで回った。小6の時、初めて学校で知能検査があり、その結果に担任が驚き親に知らせてきた。通知表が、2のお祭りだったので、親はびっくりした。中1になって、初めて勉強した。最初の試験で、550人ほどいた同学年の60番ほどの成績に、親が、驚いた。それから勉強に目覚めて、中2の時には、20番前後になっていた。中3になってからは、1日7時間は勉強した。平日の話しである。小学生の、悪ガキ、ガキ大将、勉強なんかしてられるかの悪ガキが、勉強、勉強の日々を送るようになった。不思議な気がした。 小学、中学と、習い事、稽古事なんて無縁だった。小学の頃は、毎日、それこそ夢中で遊んだ、遊びの天才だったと思う。偽肥後守をいつもポケットに入れて、刀を作ったり、ゴム銃を作ったり、竹笛を作ったり、野いちご穫りに行ったり、椋の実を取るために、崖から谷に突き出た大木によじ登ったり、蕨穫りに行ったり、山芋掘りに行ったり、川にどんこ釣りに行ったり、海にコチ釣に行ったり、毎日毎日遊ぶことに夢中であった。毎日毎日明日の遊びを考えることで楽しかった。三角野球、宝踏み、缶蹴り、馬乗り、チャンバラ、釘刺し、ビー玉、パッチン、とにかく遊びはなんでもやった。偽物の肥後守で手はいつも怪我だらけ、血を見ない日はなかった。手を切ってもアカチンつけて終わり、だからよく膿んだ。 今から考えると、勉強という環境になかった。家には本らしい本もなかった。私の勉強への目覚めが、あまりにも遅過ぎたことが、後々私を苦しめたのかもしれない、と、ふと思うことがある。 竹の会を始めて、いつも私の中には、子ども時代の自分が、いたように思う。自分の勉強とは無縁の生活への慚愧があった。勉強しない子への、真摯な、切実な思いがあった。 習い事なんかしている時間なんてない。稽古事なんかしている時間なんてない。早期英語なんてバカな考えをする親が多いが、幼児期、小学時代に時間をかけるのは、日本語でしょ。日本の文化でしょ。なんで外国人に英語を習って、日本語を蔑ろにするのか、外国の文化の優位性を吹き込まれなければならないのか。外国人教師が、アメリカ賛歌、イギリス賛歌を子どもたちに吹き込んで、子どもたちから日本語、日本の文化を欠落させる教育が、国主導で進められるなんて、愚かな指導者が、国策として、教育を捻じ曲げてきたのは、明治から変わらないが、 なんとも嘆かわしいことである。

 塾を始めた時から、もともと頭の悪い子というのがいて、そういう子はいくら教えても、どうにもならない。そのことを実経験で確かめてきた。こういう子の指導というのが、反復して覚えさせる、機械的に覚えさせる、しかないのはわたしの経験から明白である。しかし、これが通用するのは、基本の基本、イロハまで。具体的に言うと、例えば、中学でオール1、学年ビリ、そういう子なら、正負の数の初歩の計算まで、文字式の簡単な計算までが限界。こういう子の指導を経験して、個々の子どもにはそれぞれに指導限界というものがある、ということを切実なる思いで見てきた。子どもの能力の底を知るのは簡単なことである。指導のちょっとした反応でわかる。一瞬にして、底の浅い子の底は見えてしまう。親御さんの期待には応えられない、厳然とした限界が見えてくる。私の中に絶望感が走る一瞬でもある。一生懸命な子を見ているとなんともやるせない気持ちになる。 竹の会の退塾告知には、なんともできなかった非力さへの慚愧がある、申し訳ないという思いがある。若き頃の私はそれでも諦めずになんどもなんども教えたものである。しかし、今はもうその元気はない。わたしにはもう力が及ばないことを正直に白状して指導を、お断りするしかない。 ただこの決断に至るまで、わたしのできうる、ありとあらゆる手を尽くすことはする。しかし、そのことは言うまい、「ただお断りします」というしかない、力及ばず、ただただお詫び申し上げます、と。

  🔵適性試験問題の答えのヒントは、問題文の中にある

 適性試験というのは、問題文からヒントを見つけて、教科書の基本知識を踏まえて、ごく常識的な考え方の筋道を示すことである。考え方は、普通の、ごく普通の、当たり前の、考えである。しかし、これが難しい。特別のことを書こうとして、常識から外れた、突拍子もない答案を書いてしまうのである。適性試験というのは、常識力が試されているのである。してみれば、普段の勉強は、常識的な答えとは、何かを常に考えながら、常識の線を意識して、表しておかなければならない。

 ここでの常識の線、筋とは何か。普段の勉強では、常識を学ぶのである。正解を見て、ただ丸つけするのでない。自分の答案が、常識とはかけ離れていたことを反省して、常識とは何かを学ぶのである。常識的な筋道、考え方の筋道とは何か、を学習するのである。あなたたちが、学ぶ、少なくとも小学、中学の間は、常識の範囲内の学習である。小学、中学は、常識を勉強する、大切な期間である。あなたたちは、常識を知る、そのために教科書を読み、授業を受ける。だからあなたたちの意識は自分が常識を勉強しているのだということに向けられていなければならない。 例えに、文章の読み取りを考えてみよう。あなたたちは、未知の文章から、意味を読み取ろう、とする。国語の常識は、そのために是非とも必要なものである。だから漢字を覚えたり、知らない言葉を何かの文章の文脈の中で理解したり、文の駆け引き、つまり副詞や「かかり」などの用法を文章の中から学んでいく。そういう地道な努力をしないで、早期英語や習い事、稽古事に血道をあげる、常識を学ばないから、できない、バカになる。 学校教育の9年間は、常識を身につける。それだけでもう時間はない。手一杯である。 多くの人間が、常識なんかに時間はかけられないと、端折る、蔑ろにする。人は、本来常識、平凡こそを、学ぶべきなのに、人は、これを軽く見る。簡単に、スキップできると、考える。そして人は、普通よりも特別を大切とする、選ぶ、重きを置く。これは異な事ではないか。自由席よりグリーン車がいいのは当たり前だけど、これは経済原則の話しであり、世の中は、普通よりも特別を価値あるものとして、一段上に置くけれど、精神の世界では、そうではない。普通が一番であり、平凡な日常が大切であり、当たり前こそがかけがえのない宝である。

 わたしたちは、子どもたちに、普通こそ大切であり、あたりまえとして「ある」ものが、当然にあるものではないことを子どもたちに教えなければならない。そういう教育の一環として常識というもの、常識的考えというもの、を学ばせる。 何もかもが、常識的な線を引く、ための勉強であることを教えて来なければならない。 植物の蒸散、光合成からどのような常識を学ぶであろうか。太陽との兼ね合い、発汗が体内の熱を下げるのは、人間と変わらない。水分調節、根から吸い取る働きの意味、いろいろな常識を学ぶ。光合成は奇跡である。無機物から有機物を作る、二酸化炭素と水から炭水化物と酸素を作る。炭素原子と酸素原子、それから水は、水素原子と酸素原子からなる。炭水化物は、糖類の多くが一般式Cn(H2O)mで表されるので、こう呼ばれる。正確には糖質である。つまり炭素と水の化合物である。この奇跡を起こすのが、太陽エネルギーである。私たち人間にとって太陽エネルギーは、植物と同様に何か意味あるものをもたらしているであろうか。太陽光を浴びていないと、免疫機能が落ちるとは、聞いたことがある。カルシウムは、太陽の光を浴びて働くビタミンDがないと、体の中に摂取されないと聞いたことがある。太陽から放射される放射能が、生物に及ぼす影響はどうなのだろう。 私たちは、常識的な線の引きどころを常に考えている。何が常識か、常に問いかけている。

 勉強するということ、それはほかならない常識の線を知ることにあるのではないか。最近そのような思いが強い。何が正しいか、いや正しいものなどないのかもしれない。私たちは相対的な正しさを、いや自分が正しいと思ったことを唯一の正しいことと思い込んでいるだけなのではないか。わたしたちは、常に正しい選択を迫られる。人生とは、選択の織りなす迷路図のようである。何が正しいのか、実は、わからない。その時、その時代に、正しいと信じられていたことが、一年後には、間違っていた、そういうことは、何度も経験してきたことである。他人が正しいというから正しいというのは、愚かな判断だ。特に、医師が言っているからとか、弁護士が言っているからとか、大学の先生が言っているからとか、テレビで有名人が言ったからとか、テレビの番組で特集されたからとか、人の判断の動機というのは、その程度、深刻さはない。みんなが選んでいるから、というのも大多数の人の判断だ。大多数の判断、人はこれに弱い。群衆心理という言葉がある。群衆の中に生まれる特殊な心理、衝動的で興奮しやすい、判断力の低下、理性的思考の低下が、特徴とされる。大多数の人を想定して、大多数の意見と思い込む、こういう心理が判断の動機ということはよくあるのではないか。

 何かを買うというときの興奮、衝動、これは、理性との葛藤、拮抗、鬩ぎ合いの所産である。わたしたちは、常に、常識に頼る。理性の力で、衝動を抑え、常識的結論を選択する。そういう勇気ある判断を選択する行動の準則というものを蓄積して作りあげていかなければならない。 常識を学ぶ、常識を考える、常識とは何かを哲学する。わたしたちは、自然界の進化、それは「生きる」という、永遠に子孫を残そうする営みの中に、生存という、死にたくない、生きたい、というプログラムされたかもしれない、抗うことのできない、何かの、もしかしたら時間という乗り物に乗せられているのかもしれない。さて、そこで常識を哲学するということの端緒は見えている。わたしたちは、何が常識か、で悩まされるのは、神の遺伝子システムの中に運命的に「ある」からであるけれど、これまでの常識を疑う、あたりまえを疑うことと常識に従うこととの狭間で、選択に苦渋することになる。 それでもわたしは学ぶということは、従うべき常識を個人が見つけていく過程であると考える。 判断には、絶対的判断と相対的判断があると思う。前者は、唯一を対象にした判断であり、比較するものがないのだ、リスクに満ちた判断である。後者は、比較判断である。人間というのは、比較して判断するようにできている。絶対的判断をする専門家という人たちも、実は、過去に経験したものとの比較をして判断している。 試験で択一式というのがあるが、あれは、比較する体裁にはなっているが、出題者は、比較しにくいように作っている。選択肢を相反する内容にしていれば、その相反する2つに絞ることができるので、5肢択一なら、2肢択一にまで、絞ることができる。択一問題では、相反肢を見つけるのは、常識である。択一肢というのは、本物、つまり正解肢を元に嘘を仕立てあげているのは、常識であり、ある肢を読んで、時系列で前の肢があるか、論理的に前があるかとか、なら、正解肢は、その前にある。だから、個々の肢を吟味するとき、由来が他の肢ではないのか、を疑うのも常識的戦略です。 このような戦略を使うのも、試験という時間が限られた選抜には、常識です。

 よく難しい問題を後にする、というのがありますが、これは力のある者の常識です。力のない者は、解ける問題がないほどに、すべて難しいので、後に回すとみな後回しになります。 適性問題は、中学受験の問題のように、小問の1、2、3の順に必ずしも難度が高くなっていない。小問1は誰でも解けるように作問しているが、2と3が、無関係だったりするから、3が解きやすいということもある。ただ一般的には、次第に難しくする作りにはなっている。 これは捨てるという問題はある。解けそうにないほどの難問なら、みんな解けないだろうから、捨てても合否に影響はない。問題は、時間をかけたら解けそうな問題である。閃かないなら、捨てるしかない。時間のかかる問題というのは、出題者が、何か閃きがあれば、簡単に解ける、何かを仕込んでいる可能性がある。だから、これを捨てることは、合否を左右するかもしれない。しかし、時間がかかり過ぎて、他の易しい問題を解く時間がなくなるという、失敗の定番をやらかす危険は避けられない。この問題も、実力のない者にとっての悩みである。 捨てる問いは、かなり実力のある者にのみ可能ということである。 試験が時間勝負、時間との戦いであってみれば、問題の解き方にどう影響するかは気になる。 さてここでも常識的に考えて見よう。出題当局は、そんな無茶な要求はしていないのではないか。常識的に考えて、振り落とす基準を考えて問題のレベルを吟味しているはずである。その上で、70%前後を合格の基準にしている。問題の難易が影響して、下限は、60%前後であろう。さらに常識的に判断して、じっくりと丁寧に解き進めていき、解ける範囲まで、おそらく70%〜80%までは、解けるほどの時間はある。だから問題は、問いに詰まったとき、時間を喰うことのロスタイムをうまく焦らずにスキップすることである。焦らずに一問一問を丁寧に考えて解く、これである。

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