2025.01.28
🟥「国語ポイント集」のこと
「国語ポイント集」執筆の準備に時間がかかっている。読解対策について新たな試みを考えているからだ。読解対策として市販されている参考書を2冊ほど買ってみた。大学受験用参考書である。と言っても詳しい解説を読んでいるわけではない。所収の早稲田大などの現代文の問題を読み設問に当たるという、単純なことをやっているだけである。現代文の解き方などの解説は生理的に受け付けない。記述問題よりも、選択肢問題に焦点を絞っている。客観的な解法の法則を模索している。本文を読み取ることに注力することを心がけている。その際に気づきをを書き込む。難解とされるのは、如何にも抽象的に過ぎる文章である。ここでの読解とは、抽象的なものをどれだけ具体的なイメージに置き換えるかだと思う。選択肢問題の解析もわたしなりに考えるところがある。早稲田大の問題となると選択肢に流石に本文そのままの表現というのはない。つまり、出題者視点は、本文の言い換えによる幻惑であり、本文との同一性が問われている。そうなると現代文の読解とは、似て非なる肢、つまり騙しの肢に如何に騙されないか、にかかる。出題者視点というのは、出題者は、正解の肢を見ながら偽の肢を作るということである。だから偽の肢を見て正解肢を導くのは「ない」わけだから、その場合は、論理矛盾があるはずである。しかし、なかなか巧妙に作られていてそう簡単ではない。前提としてあり得るのか、これも読解の一つである。一つは、偽の二つの肢から本物の真似と見抜くこと。二つを、満たせば間違いない。
わたしは、現代文の読解は、本文の意味の読み取りであり、読解を要するのは、抽象的な文章の具体的な意味への言い換えであり、それこそがあたかも英文解釈のように、現代文解釈にほかならない。本文が抽象なら選択肢も抽象にほかならない。抽象だからこそ似て非なるものが闊歩する。人は抽象に弱い。それはあまりにも観念的な、実体のないものに思われるからである。こうして現代文読解は、抽象世界を如何にして具体的なものに引き直すかという問題に帰着する。もちろん抽象語を予め勉強するというのもありかもしれない。
国語が苦手という人に対する答えとして、①それは読書をするべきだ、特に多読の奨め、さらに②過去問をやること の2つが巷の塾、学校などで言われることが多いのではなかろうか。しかし、多読をしても一向に読解力はつかないのは、既に述べたように、読解は、抽象概念80%の文章を具体化することだから、多読は役には立たない。また、過去問というのは、現状の実力の検査であり、今その時点での力を測ることである。だから過去問を年度を変えてたくさんやっても得点はほとんど変わらないであろう。中3の9月以降、毎月過去問をやったとして、例えば、理科60点なら、12月も60点だったという経験を多くの中3諸君がしていることであろう。検査値が変わらないのは、実力がほとんど最初と変わらないということだ。
過去問は検査だ。だから実力をつけるためには、もっと別の、意味あることをやらないとダメなんだ。
こうして現代文読解は、抽象文の解釈、解釈とは具体化であるが、選択肢は、抽象文を抽象文で言い換えて、その成否を問うものであるから、両方の具体化作業を要する。
早稲田大の現代文を読んでいると、観念的な文章が続き、具体的なイメージによる裏付けができない。そうなると、丹念に具体化変換をするしかない。これが読解の勉強ということになる。そうなるとわたしは自分の問題解決過程において、どのように具体化作業をやったのかを記録に残し、報告する必要がある。
「国語ポイント集」では、古文の常識、独自校のうち日比谷、西、戸山、青山の過去問40年分の出題漢字を網羅することになっている。
記述問題対策として、200字問題の解答要領にも踏み込みたい。
記述と言っても、読解の本質は、変わらない。先に述べたことは、すべての問題形式に対応できるからである。
国語という科目は、特に、「問いに答える」ということが大切である。答え方には、①形式的対応 と②問われたことにだけ答える、という実質的対応がある。①は、俗に、オーム返しの法則と言われるものである。「…とはどういうことか」という問いには二つのポイントがある。「ことか」だからオーム返しに「…ということ」と形式を合わせる。さらに「どういう」というのは、具体的に書け、という指示である。「踏まえて」というのは、前提として書けだから、その前提に必ず触れること。一つの問題に、問いが複数あるのが普通である。その一つ一つに丁寧に答える。「なぜか」なら「…だから」である。「どのような情景か」なら、「どのような」は具体的な内容、形式対応は「…のようは情景」と合わせる。必ず問題文のオーム返しであり、自分で勝手に、別の言葉を使ってはならない。多くの答案を採点してみて、そのほとんどが「問いに答えていない」ものであった。乱暴な、大雑把な、的外れな答案であり、国語という言語の学問に対して粗雑極まりない言語で返す、愚の骨頂である。
言語は形である。字が上手い下手とかではなく、形になっていなければ、もはや言語ではない。読めない字擬きを書く子の増殖は、言語というものに対する親世代の敬意の喪失にほかならない。
「国語ポイント集」は、また大きな仕事としてわたしにのしかかって来ました。みなさまに完成の報を成し得ることを秘めて準備・製作していきたいと決意しております。