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がまんするということを知らない子たち

2015.12.30

 おはようございます。とうとう師走の30日、今年最後の指導日となりました。本日は、冬期指導第5日目です。30日は鬼門で、過去2回ほど38度以上の熱を出しております。ただこれまでとちがい、今は豊富なレジュメの蓄積があり、それほど無理をしなくても十分に高度な指導が維持できるため、そのために無理をするという必要はなくなりました。今年の冬期前半は温和な気候に恵まれ、とてもやりやすかったです。

 さて、本日のメニューですが、「勝導」、「冬期レジュメ2問」、「作文」を実施します。「新読解演習」は、ほとんど読みとれる子たちがいないため、止めました。ちなみに、このシリーズで、25年、小石川合格者、白鷗合格者が、正確無比の解答をしてきたことはすでに述べたと思います。 今更、読解演習ということもできますまい。なにしろ物語文を特集した「読解百選」さえも、まともに提出してきた子たちは、3、4人程度でしたから、文章を読むということに意図的に背中を向けているは確かなことなのですから。かといって、「新国語読解」や「天声人語」をまじめに出してきた子の中にも、全く読みとれないという子がいますから、事はそう単純でもない。抽象的な世界の言語、抽象語の論理的な操作が未熟、幼いという気がします。「見えていない」ということです。

 勉強というのは、最初は、やはりがまんだと思うのです。子どもだとほかにおもしろいことがたくさんある、勉強なんかおもしろくない、それがあたりまえでしょう。まあ、こどもの知能にもよりますが。がまんして、計算を覚える、知能の高い子なら計算ができるようになることに喜びを感じる、面白さを感じる。通分の意味とか、分数の割り算ではなぜひっくり返してかけるの?とか、円の面積の公式は、なぜ、半径×半径×3.14 なの?とか、知能の高い子なら次から次に疑問が出てくる、ただ知能がなければ、教えられる操作を覚えるだけで退屈な作業にしか思えない。ここで勉強ということの意味が、知能の多寡でかなり様相にちがいを呈してくることになる。勉強が退屈な作業で終始するとしたら、それはやはり知的欲求が低い、つまり、知能が低いためであるかもしれない。勉強するという中から勉強することの喜びというもの、面白さというものを知る、そういう過程がいちばん理想の流れだと思う。そしてそのへんに教育というものの行き場があるのではないか。

 ひとつ言えるのは、過保護、ちやほやと機嫌を取られて甘やかされてきた子たちというのは、がまんがきかない、ということです。ですから、まあ勉強には適さない教育を受けてきた子たちといえます。こういう子たちは、「教えられる」、「教えてもらう」ということを本質的に当然と思い込んでいるし、親もそれに輪をかけて見事にアホだから、「教え方がうまい」とか、「へただ」とか、しか思いあたらない。

 薬師寺を再建した宮大工棟梁の名人西岡常一さんの本(「木に学べ」)には、次のような一節がある。

 : 自然の木と人間に植えられてだいじに育てられた木では当然ですが違う。自然に育った木は強い。なぜ。木から実が落ちてもすぐには芽を出さない。いや、出せない。ヒノキ林には地面までほとんど日が届かん。種は何百年もがまんする。スキ間ができるといっせいに芽を出す。何百年もの間の種が競争する。それを勝ち抜く。だから、生き残ったやつは強い木です。それから大きくなると、となりの木、そして風、雪、雨・・・。木はじっとがまんして、がまん強いやつが勝ち残る。千年たった木は千年以上を勝ち抜いた木です。

 この西岡さんの言葉から、わたしは、「がまん」と「競争を勝ち抜く」というところに、強く心を動かされた。「生きる」というのは、「がまんする」ということです。わたしはそう思う。そして、「生きる」というのは、好むと好まざると、競争の中に身を置かれることであり、競争を勝ち抜くことが生き抜くということである。

 勉強するというのは、がまん強く生き残る術なのではないか、将来を、未来を予測できない人間にとって少なくとも最低限確かなことは勉強するということが、生き残る道につながっている、そういうことなのではないか。人生を楽しめ、という人もいる。中学生なら部活に明け暮れ、人並みにテレビを見て、ゲームを楽しんで、友達とつるんで時間を過ごす、そういうことに肯定的な大人もいる、だが、しかし、ヒノキはただ生きる、生き抜くことか考えていない。生きぬくことに優先することなんてないのだ。ヒノキと人はちがう? そう言う人がいる。そういう人はヒノキに何も学ばない、ただ人はヒノキより上、人はなんでも支配しているから、と信じて疑わない。

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