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公立中高一貫校への道/トップ都立への道/春の足音が聞こえる

2017.02.19

 おはようございます。このところ日中の気温が20℃を超す日が続きまして、アンダウェアーを一枚減らしてちょうどいい日でした。今日はまた青空がきれいです。秋の澄み渡った青空とちがいこれから霞がかった、全体に白をうすく塗り込んだような春特有の青い空が広がっていく日が近いのでしょう。春一番が今年は早かったと聞いております。

 昨晩28年に九段に合格した子のお母さまから近況報告のメールをいただきまして、懐かしく読ませていただきました。彼女は区内枠でしたが、入学後の成績はなんとかなっているとのことでした。「区外が圧倒的に上位かと思っていましたが、全然、ごちゃ混ぜ」という報告もいただきました。「先生、春が待ち遠しいですね」というお言葉に胸がつまります。去年の4月のことでしたか、九段の合同説明会に門前にてチラシ配りをしたのは。わたしが「出る」とブログで書いたら、そのお母さまが出勤途中に寄って下さり、差し入れのお菓子を届けてくださりました。そのお母さまが、「(わが子)みたいな子は竹の会でないと受かりませんでした。でも、世の中にこういう子は意外と多いと思うのです。大手では埋もれてしまいます。どうか1人でも多くのお子さんが竹の会に出会えることを、切に願ってやみません」と結ばれていました。

 今年はもう九段の説明会でチラシを配ることはないと思います。竹の会はとても小さな塾です。しかし、チラシ配りの現場では大手関係者が「竹の会か」とよく知っているのには驚かされました。大手の物量攻勢にはとても歯が立たず、まともにやりあって勝てるものではありません。なにしろ大手の配る消しゴムや鉛筆にニコニコしながら群がる親子を目の当たりにしまして「これはだめだ」と観念しました。とても世間の圧倒的多数のバカ親のみなさんを説得することなどできるものではありません。せいぜい大手に貢いでりっぱなバカ息子、バカ娘に仕上げて、区立中学へ当然のように進み、底辺を這っていけばよろしいのかとそれ以上は虚しいビラ配りなどしないことと決めました。

 実は3月中旬に実家のある九州大分県の別府に帰らなければならなくなりまして、早朝発って翌日の午後にはもう東京にいる、というまるで超多忙な企業人か芸能人のようなことになっております。現在のようなシステムでは2日続けてのお休みがなかなかとれません。実家に帰るのは7年ぶりになります。年老いた父が「話しておきたいことがある、一晩だけでも帰ってこれないか」と電話してきまして、父とは正直いろいろわだかまりがありまして素直になれないのですけれど、もうこの世で話す最後なのかもしれない、と思い、帰省の決断をしまた。懐かしい、私が生まれ、育った別府の街をいつもかみしめるようにひとつひとつの風景を過去の、そうまだ高校生だった自分の姿と重ね合わせて、愛おしむように、目という写真に収めておりました。

 高校の頃は、高下駄を闊歩させて別府の街のどんな小さな横丁も知っているほどに歩いたものです。粋がって歩いていて、チンピラに因縁をふっかけられたことも一度や二度ではありません。無鉄砲だった若き頃、そういう連中を相手に負けてはいなかった。喧嘩に負けるのが嫌で高校のときは空手をやった。空手部の顧問が「おまえはなんで空手をやりたいんだ」と質問したとき、「心身を鍛えて自分を磨きたいから」と言ったら、ニヤリと笑って、「ふん、りっぱなことを言うな」ととにかく入部が許可されました。その顧問に型など教わったことはなく、しかたなく毎日放課後道場の裏で巻き藁たたいておりました。あの頃は父親と仲が悪く、いつも反抗しては、大げんかになっていましたから、わたしには苦しい青春時代でした。進学校のやりかたについて行けずに勉強も放棄していました。きっかけは3日ほど風邪で休んだらもうプリントが各科目何十枚と配られていて、わたしの分はない、そういうことでした。人のことは知ったことではないという進学校の級友にも失望しましたが、先生もそこまでは知ったことではない、休んだヤツが悪い、そういうものでした。それからなんか進学校の先生の授業をまともに聞く気がなくなりまして、独学で旧帝大に行くことしか考えないようになりました。

 高校2年のときだったか、帰りのスクールバスで前の席にいた新聞部の部長をしていた先輩に強く誘われて新聞部に入りました。新聞部は新聞に興味のある連中が集まって、年1回とか2回出す「鶴高新聞」を作るわけです。それで記事の校正なんかを印刷屋の2階にあがりこんで一日やらされるとか、警察署の取材に夜何時だったかかり出されるとか、とにかく雑用ばかりやらされてまともに記事を担当したことは一度なかったわけです。空手の練習を終わって、部室に行くとたいてい何人か残っていてわたしが女子部員を送らされることになっていました。あの部長がわたしを執拗に誘ったのはどうも雑用係としてではなかったのかと後年よく思いました。新聞部の先輩はみないい大学に合格するということを聞いていましたけど、部長が青学の夜間と聞いたときはショックでした。親の事業が倒産して高校の時にすでに自立していたようです。あれほどがつがつ勉強していたはずのクラスの連中もたいしたところに受かっていないと思うと何かほっとした。熊本大とか、長崎大とか、岡山大とか、宮崎大や鹿児島大もいたな。みな地方の国立ばかりだった。もっともわたしは落ちこぼれていたので、5つあった国立クラスの下位2クラスの話しです。わたしはこいつらを相手にしていなかった。京大、東北大に憧れた。高校1年のときは国立大クラスの上位にいた。そのときの同級生が東北大に挑戦して落ちた。二浪して金沢大に行ったと風の便りに聞いた。京大がわたしの野心をかきたてた。とにかくすべて独学だった。進学校の先生がまともに教科書なんか教えたことはなかった。それは自分で学んで、配られる大量のプリントがメインだった。塾の先生になって子どもたちの苦しみがおのずとわかるようになったのは自分の高校時代の落ちこぼれの心情に重ね合わせているからかもしれない。

 とにかくいつも学生さんみたいなごつあるね、と言われるほどに心は高校期を彷徨っていた。

 「先生、春が待ち遠しいですね」

 春を待つ。そして今年の春は7年ぶりに故郷に立つ。母のいない故郷、仲のよくない父が生きながらえてわたしの帰りを待っている、いう。小学生の頃、いつも父に殴られ、蹴られ、泣いていた。優しい母が、祖母がいつも間に入り、かばってくれた。高校の頃、父に反抗して、学校止めるとか、もう働くとかいつも大騒ぎして、家出して、睡眠薬のんで自殺しようとして、精神病院に母に連れて行かれて、・・・荒れていた高校時代、それから独学して、苦節、苦難の末、九州大学法学部法律学科に合格した。母も祖母も涙を流して喜び、なぜか親父が喜んだ。いつか故郷を出て行くと心に決めていた、優しい母から離れられずいたけれど、結局ひとりで東京に出た。大学卒業のとき大企業に就職して出て行くという方法を選べなかった。東京に出て1年も経たないうちに塾を始めたんだ。竹の会という塾はわたしの心の中から生まれた、わたしの思いでした。悩み、苦しみ、泣いて堪えたさまざまな思いでした。わたしの竹の会、わたしの心が竹の会を生み出した。

 春、7年ぶりに母の眠る別府に帰ります。年老いた父がわたしが帰ってくるのを待ち望んでいるというのです。

 「先生、春が待ち遠しいですね」 なぜか胸がつまり涙が溢れてくる。竹の会をわたしを見守ってくれていた母はもういない。

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