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日比谷と西こそ都立/小石川と桜修館の不動の人気/富士・九段合格作戦/余は如何にして子どもの眠れる脳を目覚めさせてきたのか

2016.10.28

 おはようございます。実は、HPの「合格実績」のページに「草枕」の原稿がアップされて、同ページを壊滅させてしまいました。昨日復旧しました。みなさまにはお見苦しいページを公表してしまいました。お詫び申し上げます。「合格実績」のページは復旧しましたので、改めて目をお通しくださればと思います。

 ◎竹の会のこれからの募集について

  例年2月スタートということで、「渋谷A」の生徒募集を行ってきましたが、本年は「募集なし」としました。ただし、「渋谷B」については、この限りではありませんので、関心のある方はHPのお問い合わせフォームから問い合わせていただければと思います。

  なお、現在「渋谷A」には、新規参加できる見通しは全くなく、受け入れは「渋谷B」を念頭においてのことです。「渋谷B」につきましては、2月から改編させて、十分に受検対応できる体制にシフトすることになっていますので、安心して申込をしてください。もともと元代々木教室の頃は、月・水・金の実施でした。これが復活すると考えていただいてかまいません。渋谷Bについては、緩やかな基準による入会を是として、「準合格」に満たない場合でも、親御さんの熱意、子どもさんの勉強姿勢を評価して入会を認めてきました。さらには習い事、稽古事、他塾のかけ持ち等についても、認めてきました。それが理由で竹の会の指導が徹底しないとしてもそれは自らの選択の結果ということですから竹の会は関知しないという態度です。これまでの「渋谷B」は、「渋谷A」の待機の意味あい、入会試験に落ちた人の救済という意味あいの濃いものでした。

 2月からの改編に伴い、「渋谷A」と同様のシフトをしくことになります。今後は、入会試験「合格」者でなければ、入室できないことになります。また、これまで入会試験に「不合格」でも入室したみなさんについては、指導が効なしと判断した場合は、退塾をお願いすることもあるかと思います。いやこれはすべての入会試験合格者についても言えることでして、合格者が全員指導可能ということでは決してありませんから(事実、渋谷Aでもその前兆、綻びは感じております)、条件は同じと言えますが、入会試験不合格者ではその蓋然性が高いということはあるかと思います。

 竹の会は、質を追求するという一点において、譲歩、妥協は決してしない、してはいけないのだと思ってきました。漱石の「草枕」の冒頭、智に働けば角がたつ、情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。 兎角に人の世は住みにくい。 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。 どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。・・・結局、住みやすいところなどない。悟ったらの後は、何かすり替わる、拍子を外されたような結びと思うど、漱石先生が書けばそれも是とされる。わたしの欠点はすぐ「情に棹さし流される」ところなのだと知り抜いているけれど、厳しくできないから「渋谷B」が生まれたことはわかっているけれど、今度は「渋谷B」も「渋谷A」並みの質の高さが求められることとなる。正規の合格者がBを選ぶようになればそうなる。

 

 ◎余は如何にして子どもの眠れる脳を目覚めさせてきたのか

 大手にいた子というのは、ある意味かわいそうですね。そもそもの思考というものが削がれている、というか思考するということにあまりにも鈍感で未熟だからです。「考える」ということを軸にして生活してこなかったということが、大手の子たちのすべてを規定してしまっている、と思います。だから大手にいたという子はまず最初に変な癖を取り払わなければならない、まず考えるふりをしてすぐに説明を聞こうとする癖が染みついてしまっている、結局先生が教えてくれるという甘えが根底にあり、思考するふりをするわけです。思考する、考えるというのは、戦闘であり、生死を分けるものだ、そういう覚悟、いやそもそもそういう発想がないのです。

 それから大手にいた子というのは、ものごとのポイントというか、もっとも大切なもの、意味あるもの、そういうものをとらえるのが、まるでできていない、要はバカなんですね。つまり、そういうところの関心がうすいのです。これも塾の先生がすべて「ここが重要なところだよ」とすぐに、つまり自分で考えて探す前に、教えてきたせいです。そこのところの訓練がまるでできていないのです。

 大手の子たちはまた「読み取り」ができない、というのも特徴です。これも大手の講師が、よく読み終わらないうちに、すぐに解説を始めるせいです。それにテキスト制度がよくない。子どもたちは分厚いテキストということだけで心理的に重くなっている。竹の会が一篇のレジュメをじっくりととことん家庭で読んでもらおうという狙いはそこにある。読み取りということの訓練をしてもらいたいからである。「教養のための理科」から要点、「問い」に「答える」形式の要点の抜き出しを課題にしているのも同じ趣旨である。何が重要で何がどうでもいい知識なのか、それを「問い」を基準にして、考える、訓練をしているのである。

 国語では、問いの「形式」を未だに無視する子が多い。「どういうことか」と問われれば、「・・・ということ」と答えるのがあたりまえでしょ。形式も問いの形式に合わせるのは当然のことである。しかし、そこのところを全く意に払わない子が多すぎる。アホです。問いとの関連、関わりを無視するわけですから。世の中というのは、関連、関係、つまり意味をつなぐことに四苦八苦しているわけです。「どのように」と問われれば、「・・・のように」と答えるのでしょ。「どうしてか」と問われれば、「・・・・だから」と答えるのでしょ。「筆者の主張をふまえて」と問われれば、「筆者は、・・・と主張しているが、・・・」と答えるでしょ。問いを無視するな!全く「問い」とは無関係に答えるバカの増殖はいったい何をどう教育してきたせいなのか。学校は何をいったい教えているのか。いじめ自殺で「いじめはなかった」と嘘をつく学校幹部なんか見ていると陸な教育などできまい、と思ってしまう。

 眠れる子どもの脳をめざめさせる、それはまず抽象的な脳に仕上げることをめざした、順序立てた手順の最初は、余りのある小数の割り算、次に分数という抽象的かつ形式的な思考作用の訓練、から始められる。分数の訓練の過程は、さまざまな抽象的技術過程修得といえる。帯分数⇔仮分数、繰り上がり繰り下がり、通分、約分、剰余、四則混合、かっこ、そして逆算と抽象世界での格闘は続く。子どもたちを目覚めさせるという意味は、如何にして子どもたちの具体的なもので満たされた脳を抽象化していくか、その抽象化の過程こそが、思考を拓くということの意味にほかならない。子どもたちは初めての抽象的なもの、ある意味抽象というウィルスに脳をかき乱される、まことに脳を改編する、改造するというのは、痛みをともなう大手術であることか。幼い、未分離の脳にさまざまな概念の識別を可能にすべく、刺激を与えていく、これである。

 思考をつくるのに、竹の会では、多くの小学生が苦手とする「割合」の概念を思考開発道具として、まるでてこの原理のように、子どもたちの脳の中にひとつの思考過程を作り上げていく。この型はこれから新しく出てくる様々な思考の様式に動じることなく、この型を磨き、組み立て直し、変形させ、自分仕様の思考枠組みを構築していく元となるものである。

 思考開発の究極の目的は、抽象的思考世界の構築である。そのためにわたしはさまざまな脳を刺激する教材を開発して、子どもの思考形成に取り組んできた。

 長い間の指導の実践過程から抽象脳にするには何が大切なのか、大切でないのか、失敗を重ねながら、学んできた。子どもたちの具体脳を抽象脳に変えること、これこそが竹の会の、わたしの最終目標とする、大仕事である。

 わたしの指導というものについては、世間一般の親たちから「いったい何をやっているのか」と疑問に思われるところかと思う。わたしは、「授業なんてないですよ」、「テキストもない」とそこまで言うと、たいていの親たちはここでさっと引く、それがわかる。大手のやりかたをまずありき、絶対的前提としてきた親の脳には、考えられない、価値なしと断ずるに躊躇はない。竹の会の親御さんなんかはもう「授業」などいう言葉は使わないし、「指導」という語を普通に使う。竹の会が指導ということでもうすべてその内包することを了解している、わかっているのだ。勉強するのは子どもたちであり、子どもたちが、テキストや授業に従属するのではない。竹の会のレジュメは子どもの能力を開発する、切り拓くための手段であり、子どもたちにとって負担でしかないのならもはや竹の会に手立てはない。負担と感じるとしたらまず子どもの能力を疑うのが筋である。

 いや竹の会に通うということはいつでも子どもは最低限必要とされる能力があるのかを問われているということである。竹の会の求めている最低限の能力さえもないということであれば、とりもなおさず竹の会は意味がない、つまり、指導が成功裏に進められない、ということであるから、退塾は当然であり、ここに情の棹さす余地はなく、退塾は双方に合理的な判断、結論である。ここに感情的なものを持ち込むと話しは複雑になっていけない。

 わたしには指導できない子というのがある。読んで理解することのできない子というのは実は指導は無理である。頭のいい子かどうかはすぐわかる。文章を読んで意味を理解しない子というのは実は教えることはできない子だ。わたしたちは言葉をつなぎ合わせてひとつの意味というものを表現する。言葉を、つなぎを理解するというのは、基本中の基本である。読んでわからない子というのは、そういう基本の知能がないということである。これを教えるということがそもそもありえない話しである。ところが、巷の塾というところは、こういう子でも教える、わかるまで教えるという塾もあったけど、わかることは永久にないだろうから、教える行為を継続してカネをとる、そういうことである。

 竹の会は、竹の会の指導をもってすれば、バカは利口になる、そんなことを言っているわけではない。大手はバカを集めてなんとかなるような雰囲気を醸し出してカネを取るけれど、竹の会は最初からそういうことはできません、と言って選別しているでしょ。だれでもかれでもとは言っていない。学校の通知表で「よくできる」が8割前後というのが竹の会が指導できる範囲の目安と言ってきた。この層にある子たちが、大手ならバカになるけれど、竹の会ならそれどころかトップ都立合格まで導ける、そういうことを言っているだけです。だからだれもかれも、「うちの子も」と竹の会を目指されても困る。

 

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