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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

日比谷・西・それから戸山/小石川という選択/もって生まれた才というもの/そろそろさすがに気づき始めた大手のバカ親たち

2016.10.30

 おはようございます。秋と冬の境には必ず紅葉という時間の線が引かれる。深々と深まりゆく秋はその色合いが尺度となってわたしたちに冬の到来を予感させる。二、三年前の秋だったか、急に紅葉が見たくなって京都の東福寺を訪れたことがあった。生まれ育った郷里の秋は離れて久しく遠い記憶の中だけで生きている。思い返せば小学生の頃の冬は冷たかった。いつも寒さでブルブルとふるえていた気がする。それで風邪なんかはいつも体内に棲みついていて鼻をずるずるやっていたけれど高熱などはめったに出さなかったのはなぜなのだろうか。暖房と言えば、火鉢と炬燵、どちらも炭火、いや火鉢はやがて練炭に変わった。石油ストーブが普及し始めたのはもっとずっと後だったような気がする。

 お正月はわたしたち子どもにとっては大きな行事だった。師走の大晦日、母の父、つまり祖父が津久見からやってきた。別府駅からタクシーで家まで乗りつけてくる。石炭箱と言われた木製の箱にみかんがいっぱい詰められていて、祖父はタクシーからそれを下ろすと、姉、わたし、弟の名前を呼びながら入ってくる。大晦日はばぁちゃんと母が一日中煮染めとか、普段食べられない料理をあれこれ用意して家族みんなで食べて過ごした。卵焼きとかかまぼことかハムなんかもお正月しか食べられない料理だった。昆布、ゴボウ、里芋の煮染めはばぁちゃんの大得意だった。わたしたち兄弟は、津久見のじぃーチャンと言って楽しみにしていた。津久見のじぃーチャンは、お年玉をくれて、当時の市内の中心部にあった、丸井食堂に連れて行ってくれた。そこは大勢の客が溢れて活気に満ちていた。大好きなのはチキンライスだった。

 子どもの頃の生活はまさに生活だった。親は生活に追われて、頭には教育というものはなかったのではなかろうか。家には本らしい本なんか一冊もなかったし、教科書だけだった。小学1年生になったとき、買ってもらったランドセルは怪しげな商店から買ってきたもので、明らかに同級生たちの持っているものとは違ったけれど、ばぁチャンが「手に入らない馬皮のもの」と誉めてくれた。1つ違いの弟が小学生になったとき、みんなと同じ豪華なランドセルだったのが、不思議にも思わなかったほど何も考えてなかった。それが差別だと気がつくまでには随分と時間がかかった。

 郷里のお正月もわたしが東京に出てきた昭和59年のお正月が最後になった、いや60年の正月も郷里だったような、そうでないような、いずれにしろ竹の会が塾として忙しくなるともうお正月を郷里で過ごすという、世間の人たちが普通に過ごす生活が、できないことになった、こうして竹の会の30年の歳月をわたしは厳しい冬期集中指導の合間の休息のひとときとして体を休めて過ごしてきた。そういうお正月がまたやってくる。母も祖母いない郷里に足を踏み入れることを拒んできた。なぜか九十才を超えた、わたしの不理解者父が独りで暮らす。隣には父思いの弟夫婦が暮らす。

 秋を求めて、いや少年時代にいつも父に殴られて泣き明かしたあの頃の秋や冬、それさえも懐かしく思えるのは、やさしかった母、祖母を故郷の風景と重ね合わせて思い浮かべるからなのだろうけど、母のいない空虚さをどうしても埋められない。いつか郷里の、母の眠る墓を訪ねて、「母さん、ただいま」と言う日が来るのだろうか。

 ◎ふと思った。大手塾というのはできない子をほったらかしにしておくだけなのではないか、と。竹の会が入会試験をやるようになって、4年目になるのか。確か、今年九段に受かった「Kさま」が2012年の12月に始めて試験を受けた、と思う。Kちゃんとわたしは呼ぶが竹の会で同時期に過ごした子たちは尊敬の念を込めて「Kさま」と呼ぶ。2013年の入会試験は手探りの時期だった。逸材発掘という役割を果たし得るほどには使えなかった。それでも篩いにかける、という役目だけは機能していたのであろう。今の「入会試験Ⅰ」が完成したのが、同年の6月あたりではないかと思う。その後この「入会試験Ⅰ」は逸材発掘の役割を担ってきた。2015年は入会試験を受けた者は多かったけれど、合格者は1名だけで、塾にはほとんど人がいなかった年であった。2016年現在の「入会試験Ⅰ」が、小4を対象とした試験だということが、長い試用の結果、明らかになってきた。小5で合格しても、信用度は次第に下がる。小5も4月、5月が限度か。小6前後に合格してもまずダメで、ましてや不合格となると指導そのものが無理とみてまちがいない。

 小5用にと開発したのが、「新入会試験Ⅰ」であった。試行錯誤を重ねて、小5の逸材発掘に使えるほどにまで収斂したと思う。ただこの試験に合格できた小5はこれまでに皆無である。

 竹の会の入会試験Ⅰに挑戦して、いわゆるA合格をとった小4というのが、すでにかなりの数に達した今、これを基準に考えても、小5やさらに小6さえもが、合格点をとれないというのはどうしたものか。もって生まれた天賦の才というものは否定しきれない。大手に子どもを入れる親というのは、それは夥しい数になろうが、大手というのが、できない子を放置するだけだ、ということに気がつくのは、早くて今頃、小5の今頃であろうか。いやもっと遅い親もたくさんいる。小6の今、大手のやりかたに疑問を持ち始めたなどという父親がメールしてきたりする。今更遅い。わたしが懸命に、小4の今しかない、と訴えている時期に、竹の会、何?それ、と一蹴した親たちがどれほどいたことか。あの当時もし真摯にネットを検索すればきっと竹の会に出会うことができたはずである。もっとも竹の会に出会っても、大手を選択して1年経って、竹の会に辿り着いたという親もいた。ぎりぎりまで竹の会を信用しきれない親たちがいた。大手はすんなりと信じるのに、竹の会はどうしても信じ切れない、そういう親たちが入塾を躊躇する姿が目に浮かぶ。

 竹の会に入塾してみて、初めて、塾というものを知る、本物の塾というものを知る、これまでの大手という選択がいかに愚かな選択であったか、を知る。大手というのは、できない子を放置するところです。何もしないのです。大手にいたという子の学力がひどい、ひどすぎる。いや大手だけではない。さまざまな塾に通っているという子たちが、それなりに自信もあるようだけれど、竹の会の指導に出会って、たちまちそれまでの塾がいかにひどいかがわかることになる。世の中にこんなに溢れるバカの群れ、それは母親、ときには父親という、無定見が作り出す、必然バカである。

 さてそれではこの東京にまともな塾がどれだけあるか、である。わたしは塾の団体には属していないので、他塾のことは何もしらない。どんないい塾があるのか知らないのである。だから親御さんが探すしかない。ただこれまで様々な塾に通っていたという子どもたちの学力を見る限りにおいては、陸な塾はないようである。もっともいい塾なら止めて竹の会に来るということもないであろうから、これだけではなんとも言えない。ただそれにしても世の中にはいい加減な塾が多すぎる。ほったらかしは平気でやる。意味のない「教える」授業を平気で続ける。だいたいお仕着せのテキストを使うところから離れられないのだから結果は見えている。それにしても母親というのはこうした塾の塾長や講師によく騙される。できないという子をそもそもできるようにするなどということがおかしい。できない子はできるようにはできないのだ。

 世の中には、文章を読んで理解するという基本の能力がない、備わっていない子がいる。こういう子はまず「教える」ということができないのである。百聞は一見に如かず、だから読んで理解できない子も口角泡を飛ばして説明すればなんとかなる、と考えるのかもしれない。しかし、結局そういう子はだめである。実は、竹の会の「入会試験Ⅰ」はその能力を試している。だから竹の会の入会試験Ⅰに合格点がとれないというのは勉強に必要とされる基本的素養を欠く可能性があるのだ。

 安易に大手に入れるよりも、しなければならないことがあるでしょ。文章を読んで理解する、これを磨くことでしょ。計算をしっかりとできるようにするとか、文字を丁寧に書けるようにする、とか、そうした基本的な躾もなにもしないで、安易に大手などに放り込めばどうなるか、最初から分かっていることではなかったのか。1年経っても陸に文字も書けない、計算もできない、文章を読み取ることもできない、それって何?

 わたしはそういうことを大切にしてきただけです。世のバカ親のみなさんが軽視すること、大手に行けば合格のノウハウを教えてもらえる、と単純に考える、そのバカさ加減では、子があまりにも哀れです。バカな母親や父親の選択に人生のもっとも大切な、小4,小5という時期を無為に過ごす、アホに変態させる、堅い殻に覆われた昆虫のままに、終わらせる、なんとも残酷な話しです。

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