画像
中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

最低でも戸山/勉強適性能力/大手塾と竹の会の決定的違い/小学生は指導と訓練で伸びる

2016.05.19

 遅くなりました。朝は、竹の会の定番レジュメ「割合問題編」と「その他の問題編」などを収めたファイルからそれぞれ独立したファイルにする作業に従事しておりました。これまでレジュメをプリントアウトするのにかなり手間がかかっていたのを改善する作業です。これをなんとかやり終えて、ちょっと他出しておりまして、ようやくブログ更新ということになりました。

 まず、気になることを2、3苦言ということで呈しておきます。

 まず、中学生について、特に、男子、これまでの小学生のときとは、違って、ふざける度が過ぎる、将来的には反抗的態度、協調性に欠けるなどは、即日退塾事由となります。信じられないかもしれませんが、元代々木教室の時代には、「○○くん、退塾です」というようなことが毎年必ずありました。中学生というのは、親も手に余る、つまり親のコントロールが必ずしも及ばない時期が必ずきます、したがって竹の会では本人に責任を問うかたちで、中学生には親御さんを介することなくずばり本人に退塾告知してきました。近年竹の会では男子中学生をとってこなかった理由のひとつにふざけたり、いたずらをする、幼児性の高い男子中学生とかかわりたくない、反抗的な中学生の対応につまり指導以外の問題で時間をとられたくない、ということがありました。竹の会は近年は純粋に勉強したいから竹の会に入会した、そういう女子中学生のみの入会を認めてきました。中学生再開ということは当然塾にいつもついてまわるこのような煩わしい問題が日常的に生じることであり、注意を喚起しておきたいと思います。

 次に、受検、受験を志して、竹の会にきたのなら、勉強にまつわるもろもろのことを決して面倒くさがってはならない。

 勉強を面倒くさがるというのは、勉強適性がない、ということです。本年はこの勉強適性がない子が受かっていますが、本来ありえないことです。「字」をていねいに書かないという子がいますけど、これは男女にかかわらずですけど、これはていねいに書くというのが、要はめんどうくさいということでしょ。ていねいに書けば緊張感をもって時間をかけて書かなければならない。だから面倒くさいということでしょうが、なんでも初心のうちは面倒くさいものです。丁寧に書いているうちに慣れてくる、そうすれば速くきれいな字も書けるようになる、そういうことでしょ。

 わたしは、ことあるごとに「単位をつけろ」、「式を書け」と注意をしますが、何度注意しても修整できないわけです。基本的に、面倒くさいという本質があるからです。勉強というものは決して楽して楽しむものではない。たいていは面倒くさいことだらけです。だから面倒くさがるというのは、本質的に、勉強には向かない、勉強適性を欠く、ということです。

 勉強に関しては、バカ正直なくらい素直に、面倒くさがらずに、やるのがちょうどいい。この面倒くさいというのと、頭のいい子がやる勉強を要領よくやるというのは、もちろん違うことだけれども、小学生や中学生には、要領よくやるということからなんでもかんでも省力化しようとする子がいる。これがいつのまにかめんどうくさいからということにすり替わっているということです。

 受験というのは、面倒くさがる子には向かない。課題をきちんとやるのが面倒くさい、きれいな字で書くのが面倒くさい、そういう面倒くさがり屋の人には向かない。難関の国家試験などは、めんどうくさがる人には向いていいないと思うが、中学では定期テスト、高校入試、高校では、定期試験、大学入試と試験を避けることはできない。ノートにまとめたり、辞書や事典を調べたり、ファイルを整理したりとめんどうとは相容れないことばかりである。そういうことが目的のもとでは全然苦にならない、むしろあたりまえと感じるくらいの人ではないと勉強には向かない。

○大手塾と竹の会の決定的違い

 以下の記述は、大手塾はなぜダメなのか、その答えともなる。大手は、テキスト中心に回る、ということである。集団授業方式では予めのテキストが必須の道具となる。このテキストを中心に、講師、すなわち授業、それから塾生が行動するのが大手である。テキストの単元をカリキュラムに組み、講師も生徒もそれにしたがって進めていく。予習、復習という概念もこの仕組みから生まれる。授業についていけない、というのもこのテキスト中心主義から生じる事態である。講師も生徒もとにかくテキストに合わせていかなければならない。画一化されたテキストに十人十色、多種多様な子たちのほうから合わせていかなければならない。これはテキストが難しければついていけるのは天才のみとなるから、通常は平均的なところで統一する。進学塾だとレベルを上げなければ実績が出せないし、都立中レベルだと実態はかなり低めに設定しているようだ。これは塾の授業についていけないというのは営業戦略上まずいからであろう。

 こうして大手塾に通う子どもたちは、大手塾の用意したテキストを軸に回ることになる。画一化された、平易なテキストに各種各様の能力の子が一斉に「合わせる」のである。授業で説明を聞くスタイルも能力千差万別の子どもたちにもたらす効果は区々でありうる。大多数のバカ生徒には聞くだけ授業がバカを熟成させるのは疑いない。

 竹の会は、教材を子どもに合わせている。竹の会の教材とはレジュメであるから、竹の会はレジュメのほうが子どもの能力に合わせるように努力している。だから各人各様に異なる能力に対応してレジュメのほうから合わせていくことになる。ここが大手と根本的に、本質的に異なることである。

 大手は講師も生徒もテキストを見ているが、竹の会は、指導するわたしも、レジュメも、子どもたちを見ている。常に、ひとりひとりの子どもの能力の段階を感じとり、それに合わせてレジュメを準備し、指導をする。大手は、15人いたら、15人が、同じテキストに合わせる。竹の会は15人、ひとりひとりにレジュメを、指導を、合わせる。

 ○小学生は訓練と指導で伸びる

 わたしは大手のように授業でテキストの単元を説明して、生徒はこれを聞く、ということが、特に、小学生には最悪なのだと確信しています。

 竹の会のような指導スタイルのもとでは、つまりレジュメによる指導をとるところでは、次のレジュメにステップアップすることができるのか、そういうことが常に問題になるわけです。ですから、レジュメ指導というのは、間に「訓練」を夾む、できるまで「訓練する」というのが、必然必須となるのです。「訓練」を重ねて、次の、ひとつ高いステージにあげていく、そういう発想です。訓練の内容、段階というのは、個人個人当然に異なる。わたしは塾というのは、訓練の場、道場みたいなものだ、ということを言いますが、その趣旨はそういうことです。

 たとえば割合の問題がわからない、とする。普通の塾だとここで先生がわかりやすく「教える」ことになるのでしょう。しかし、竹の会ではそういうことはやらない。そういう場合は、その問題を自分で考えるだけの思考が熟成していなといと判断し、ステージを下げて、また訓練を最初からやり直す、そうして思考力がタフになったところでもう一度考えさせる。それで自分で考えて解かせる。教えない、飽くまでも、自分で解くというスタイルにこだわる。「わかりやすく教える」塾や先生を評価するバカ親の期待には添えないが、竹の会ではそういう対症療法的な、将来に自立の可能性のない指導法はとらない。

 塾を素朴に「習う」ところ、「教えてもらう」ところ、知識を与えられるところ、そう信じて疑わない親は竹の会には来ることはない。

 竹の会は子どもが自ら考える、考えて正解に達する、そこにこだわる。そのためのワンポイント・ヒントは与えるけれど、これも思考に資するゆえにである。

 竹の会では、考えて正解に達すれば「合格はんこ」を押す。もう一度考えて正解なら「準合格はんこ」である。ほかに「確認はんこ」と「理解済みはんこ」がある。後者は、できない場合で説明を受けて「わかった」場合である。このはんこで埋められては思考力はついていないのだが、こればかりで受かった子も出た。

 竹の会では、解き直しにこだわる。作文などは何度でも書き直しをするようになっている。訓練ということが竹の会のコンセプトにあるからである。

 竹の会では、「訓練」に「訓練」を重ねることを重視する。それはレジュメ指導の当然いきつく形であり、訓練なしには次のステップには進めないという、子どもたちの主体的意思形成の過程、契機、動機づけを教育することになる。

ページトップへ