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最低でも都立戸山/大手塾を信用するB層の親の末路/本物の塾とは/社会に大量にあふれ出るバカ生徒

2016.05.18

 おはようございます。昨日は朝から激しい雨でしたが、それも夕方には底を尽き、夜にはぽっかりとまばらに浮かぶ雲が夜空を鮮明にしました。東京には星空がないのでした。故郷の九州別府ではよく星空を見上げていろいろと思いを募らせたものです。今日はすっかり晴れて青空が広がり、気温はややいつもよりは低めです。家人が週末に高熱を出し、季節の変わり目、疲れの蓄積、不規則な時間リズムなど体を狂わす要素満載のこの季節、みなさんもどうかお気をつけください。

 本日は渋谷Aの指導日です。渋谷Aのみなさんはそれぞれに課題を抱えて今はとにかく勉強しないで立ち止まることなく無心に努力を重ねるほかありません。

 中3は1名のみ。実力、実行力はありますので、課題は内申です。中2は中3になるまでのこれからの10か月が勝負です。中1は数学の波にのれない者、英語の波にのれない者、今は、いろいろと悪戦苦闘をしております。なかには中1数学を終えた生徒も出ておりますが、数学がなかなか進まないとか、英語がなかなか身につかないという生徒もいます。

 中1のみなさんは、1日最低でも5時間を実行することが、そういった状況を打破することにつながる、特にこの時期、これから6、7、8月の時期に問われることでしょう。今このときしかないということをしっかりと自覚してください。

 小6は、去年とはちがい、割合を理解して適性に臨むという体制がとれない状況です。「割合」を合格はんこをとりながら進められない、というのが大きい。特に、小6前後に大手から来た子たちは、計算、割合がほとんどできていない、ということで、基本から鍛え直すしかなく、指導の遅れは否定できない。小4の3月にきた子がかろうじてなんとか滑り出しておりますがどうものんびりし過ぎです。他にライバルがいないのがよくないのか。正直どうなるのか、不透明です。とにかくここはがまんしてぎりぎりまで基本訓練を続けるしかない、適性が全く「解けない」のですから、次のステップに進めても意味がない。

 小5は、割合の導入段階の子、「算数の魁」に入った子、小4の3月入会した子は、「割合問題編」に入ってはいますが、このレジュメは難しいので、合格はんこをとりながら進めるには、それなりの知能が問われます。今年の合格者たちの中には、この「割合問題編」のほとんどで合格はんこがとれずにほぼ全問説明を聞いて「わかった」という理解済みはんこで終わらせた子たちもいました。

 このように今の竹の会はまだまだ途上で混沌とした状態です。どうにかこの夏までに指導のリズム、つまりは勉強のリズムにのる者が出てほしいと願っております。

 わたしは多くの子たちの成長というものを見てきました。その中から小学生を「考える」小学生として仕上げるには、やはり小4がいちばん余裕をもって指導できるのかなと思うようになりました。小4と小5の差というのは、とても大きいもののようです。例えば、小4の3月指導開始した子と小5の4月指導開始では、わずか2か月の差ですが、それはもう竹の会でははるかな差になって表れてきます。もちろん、今年の小石川合格者のようにかなり遅れての入会でも才能と実行力にすぐれていれば、特に省力型人間でなければという限定つきですが、早晩追いつき、追い抜くというケースも知っています。だから一般論です。

 小学生を規定するのは、やはりもって生まれた才が大きい。これは子どもたちが努力してなんとかなるものではない。しかし、才だけではだめです。才を生かすには、才を鍛える、鍛えなければならない。それは、指導する側から見れば訓練するということであるが、本人には実行力の問題です。こうして才と実行力が成功する小学生の鍵となります。

 小4の訓練というのが、大きいと申しましたが、実は、小4というのは、もともとの才の片鱗はあっても開花の時期はかなり遅い子からかなり早い子まで区々です。竹の会の定番の入会試験Ⅰについては、小4の10月前後にA合格をとった子たちがいます。通常は小4の2月入会として、1月までにA合格がとれることを想定しております。小4の2月までにA合格をとった子の合格可能性はかなり高いものです。小5の2月にA合格というのは玉石混交の懼れがあります。小6のA合格は当然として、もし不合格なら指導そのものが不可能という、消極的判定として機能するでしょう。

 こうして小4というのが、実に個人によって知能の生育段階が区々であり、それはそれまでの家庭環境、家庭教育というものが、影響しているのかとも思います。のんびりとした家庭なのか、教育にあれこれと腐心する家庭なのか、それによって小4の状態もかなりちがってくるということです。竹の会ではこれまで入会学年、年齢については、小3の2月からがぎりぎりの指導開始時期と見てまいりましたが、小3でも集中力のある子ならより早期に、9月あたりからでも受け入れ可能と今は考えおります。

 ここで集中力と申しましたが、ひとつのことに集中できるか否か、というのは、小学生の能力を識別する有力な、かつ確かな証拠となるでしょう。竹の会では、本年、机に30分もついておれないような小6が複数いまして、その中から合格者が出ましたけど、こういう子は手がかかり心労(ストレス)も半端なものではありません。やはり今後は集中できない、机についておれないような児童は入会の段階で峻別しなければと思っています。さらには、何かにつけて習い事、稽古事で勉強を中断する子の成功率はほとんどなく、最初からこういう事情を抱えた子というのは入会段階で阻止すべきものと考えております。

 そもそも家庭学習の習慣もない子というのが、いったい塾にきてどうしょうというのか、です。そういえば思い出しました。そういう子の母親が、「竹の会のような勉強する子たちの中に混じって勉強するようになってくれれば」という入会の際のことばを。もともとそういう子であったということは親は承知していたわけです。よく「うちの子は勉強しないでだらけているので、竹の会のような勉強する子たちの中に入れてもらえば勉強するようになるかもしれない」という母親がいましたけど、迷惑な話です。なぜ自分のしつけの失敗を竹の会が他の子を犠牲にして請け負わなければならないのか、さっぱりわかりません。

 ◎ものごとが見えない」親たちのなんと多いことか

 世の中には何も見えていない親ばかりなのか。目先の餌によく食いつく。大手の消しゴムなどのばらまき作戦にはもともとの欲もあるのかほとんど抵抗もない。食いつきのいい金魚のように、大手の繰り出す、美味しい餌に飛びつく。まるで警戒心はない。後でよく言われる「信用していた」という言葉がこういう人たちの大手=絶対信用の、なんともシンプルな思考回路としてあることがわかる。小泉の時代に小泉のバカ国民操作戦略の一環として民間の会社に作らせた企画の中で、B層という言葉が生まれた。それはIQの低い、小泉を雰囲気で支持する国民層をさしてのことであったが、このB層という言葉に適菜という人が特別の意味を与えた。つまり、IQが低くて時の時流に流されやすい人たちのことをB層と呼んだ。マスコミなどがいいと言えばすぐ飛びつく、人が並べばすぐ並ぶ、そういう流されやすい人たちである。かれらには思考というものがない。桜の名所に群衆が集まりあちこちで酒盛りをし、行楽地に押し寄せる人、人の波、選挙も雰囲気がこの人たちを大きく支配する、そういうB層の存在ほどこれからの日本を愚かな選択に導く原動力として恐いものはない。

 ところで大手の合宿とは何? 富士山の麓で受験の合宿をやるわけ? わたしのように、そもそも勉強というものは、孤独なもの、孤独の中で集中するものと心得ている人間にはとても理解の域を超えていて把握不能である。「1か月授業料半額」「値下げ」というのは何? ユニクロか、と突っ込みたくなるけれど、それは甘い罠で、入塾すれば、特別という名の授業講座でいつしかがんじがらめの支払いのスパイラルに巻き込まれているのがオチでしょ。わたしには、「後でたっぷりいただきますから、・・・」としか聞こえないけれど、当の親たちには女神のささやきの如くに見えるのであろうか。

 大手は楽しいのかな?どうもそのようだ。これまでわたしの耳に入ってくることばはそんな声が多い。「仲間がいて楽しい」とはよく聞いたけれど、講師も学生講師で子どもたちには嫌なことは言わないでしょ。子どもが欠席すれば学生講師は必ず家庭に電話して励ますことが義務づけられている、子どもにはいつも阿り、親には絶対に逆らわない、徹底した営業戦略である。企業である。なにしろ一部とはいかなくても上場を果たしている大手もあり、これははっきりと営業利益を上げて株主の皆様にバカ親たちから巻き上げたカネを配分しますと公に明言したようなものでしょ。

 親は子どもがニコニコ顔で通うのがうれくてしかたない。B層のみなさんには、みんなが通っているというのが大きな支えなんですから、しかたない。流されやすいB層の親たちには、みんなの動向こそが行動原理のすべてなのだから。

 問題はこのように預けきりで、放っておく、それで1年、2年と経ってからの話しである。その間にバカが熟成してもはや後戻りもできない、本物のバカになっている。当然受検などは成功するはずもない。大手で失敗してバカになっても、だれも大手に文句は言わない。文句を言う人はいない。これが個人の塾だと何かと文句を言いやすいわけです。自分の子の頭が悪いことまで塾のせいにされる。成績をよくするために塾にやっているのによくならないと文句を言う。大手は成功を自分の手柄と誇張し、失敗には、大量の、成功の何倍、何十倍もの失敗には都合よく背中を向けて何も語らない。大手で失敗した親たちも決して大手に悔やみごとのひとつも言うこともない。大手はそれだけ巨大であり文句を言うことのできないものと心得ている。自分が騙されたという自覚もない。こうしてすべてはなにもなかったかのように終わる。

 残ったのは、基本訓練を受けてこなかった、ただそれだけのために、これから公立中学で落ちこぼれていくことが確定してしまった子たちだけである。しかもかなり多い。群衆並である。しかし、懲りない親たちはまたまた大手に子どもを預けて平気である。なぜ自分の子が失敗したのか、そもそも自分の子のほんとうの実力というものはどの程度のものなのか、そういうこともうやむやにして、とにかくも丸ごと大手に預けてしまう。中には、大手はだめだと考えて地元の個人塾にいれる親もいるでしょう。しかし、思考力のない、その意味でバカになった中学生を教える塾には商売にはなるけれど実は見通しなどないはずである。個人塾でよくなるのはもともとの優等生だけである。しかし、その優等生も本来伸びるべき能力を矯められる、そういうことも往々にしてあるであろう。

 だから「本物の塾」というものが、問われてくる。いったいこの東京に「本物の塾」というものがあるのであろうか。わたしはいつもそういう姿勢で竹の会に問いかけてきた。竹の会は本物の塾なのか。子に阿る、親に阿る、そういうことは真っ平ご免だった。勉強しない、する気もない生徒をただ塾につなぐのは詐欺であり、良心にもとると考えてきた。勉強の孤独を害する生徒だってだめだ。他人の孤独を尊重できない生徒になってはならない。指導室でくつろぐというのは勉強の緊張に耐えられないということなのだと思っていたけれど、これをなすがままに認めることもできない。

 26年都立駒場合格のとき、そのお母さまが私的なメールで「竹の会は東京に数少ない本物の塾です」と言ってくださった。同じ言葉は、23年に都立文京に合格した女子のお母さまからもいただいた。期せずして、わたしの思いが通じたかのように、同じ言葉をいただいたことがどれほどうれしかったことか。

 竹の会は、大勢に流されやすいB層の親たちには見向きもされないけれど、竹の会という本物に気づいてくれる、ごく少数の人たちがいる。

 27年に戸山に合格した男子は、「竹の会はネットでは有名ですよ」とよく言っていたけれど、ネットの世界は日本全国ということですから、なかなか竹の会に通うというまではいかないですよね。

 そういう竹の会に23区のあらゆる区からいつも1時間近くかけて通われているみなさんにはとても感謝をしております。

 

 

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