画像
中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

最低でも都立戸山/大泉・白鷗・富士攻略の手順/師走に思うこと

2017.12.19

 おはようございます。今日はこれから小田原へ出かけます。18日が母の命日で母を思い小田原に住む姉に会いに行って参ります。姉が長年住み慣れた大分を離れて姪の住む小田原に越してきたのはわたしにはうれしいことでした。まったく縁のなかった小田原にはもう数回は行く機会があり、すっかり小田原通になりました。東横線、JR、新幹線と乗り継ぎ1時間ほどで着きます。新宿からロマンスカーで箱根にはよく行ったものですが、小田原は箱根の隣のようなものです。今日は4時にはもう東京へ帰ってきます。山積みの仕事を少しでも片づけておきたいからです。早いものでもう師走も下旬へと入ります。このところ指導日には必ず過去問をコピーすることになっていまして、それなりに忙しいのですが、昔の竹の会の受験時期を思いだします。まだレジュメというものがなかった時代です。平成5年には竹の会のオリジナルテキストが完成していたと思うのですが、受験時期はとにかく過去問をコピーして徹底的に回しました。高校受験が専門でしたから、偏差値55あたりの高校から初めて70前後の高校まで50~100校の過去問を各10年分前後やりました。あの当時はわたしがわら半紙に書いた解説が人気でした。それから当時はいろいろとテキストを書きましたが、「数学100問」は平成10年に鈴木君が早稲田実業に合格したときに使っています。その解説はすべてわら半紙でした。そのわら半紙解答が後に「入試過去問撰」というレジュメの下書き原稿になりました。渋谷教室なって過去問コピーを使った指導というのはなかったと思います。すでに竹の会ではレジュメ指導が完成しており、A合格の小4ならこのレジュメ指導だけで99%受かりました。ところが今年の小6はほとんどが小5入会です。小4入会の子は1人いますが、これとて3月からで小5入会と変わらない。小5入会だと基礎訓練、思考訓練期間が絶対的に足りなくなる。だから小5の2月からスタートする適性のための思考訓練にどうしても間に合わない。多くの子が不完なままに適性訓練に突入していくことになります。小5からでも完全燃焼している子は確かにいますし、いました。そういう子というのは、もともとの思考力の質のよさに加えて類い稀なる努力をするところが本質的に違います。平成28年に小石川に合格した女子は小5の9月以降の入会でした。彼女はすでに竹の会で小4の2月から訓練してきた子たちとの差を痛切に感じておりました。それでその子たちに追いつくためにそれは必死に努力してきたのです。小5から竹の会に来るというのはそれほどの重圧のあることなのです。ところが今年の小6は全員が小5以降の入会なのにそういう危機感のほとんどない子たちでした。いや正確には小5の9月入会の1名のみがそういう危機感をもっていた。だから負けたくない、追いつきたいという気持ちで努力したのでしょう。ところが先に入会して進んでいたはずの子たちが油断していた。先送りする子がなんとも多かった。危機感がないのです。これは家庭の受検認識、姿勢にも表れておりました。小5の時期に「遅すぎる」という認識というものはまずなかったように思います。いろいろと勉強を先送りする家庭の事情は普通に多かった。竹の会の過去の合格者を見てみますと、実は、共通点があります。合格する子の家庭というのは、家庭の事情というものがほとんどないのです。だから塾を休むというのはよほどのことでなければあり得ない。それから小石川や両国だと圧倒的に小4の早期入会者が強い。桜修館についてはそうでもない。小5どころか小6からでも受かっていた時代がある。都立中高一貫校制度スタートの頃です。都立中を受けるという家庭の親の認識は「小5でも早い」というのがほとんどです。だから小5の間は「まだ小5だから」とか、「小5のうちに」と家庭の事情を優先させる。この甘い判断が後々の失速につながるとも知らないで。

 今年の小6はそういうわけでわたしの想定する合格の手順を踏んできた子は1名しかいません。わたしには合格にはこのレジュメをこなさなければというのがあるわけです。ところがそれをなんとか、辛うじてこなしてきたのが1名だけというのはわたしには想定していたこととはいえ、ショックは隠せない。このままでは共倒れになるという危機感が夏が終わってずっと私の中に渦巻いていた。適性レジュメが合格はんこで進められない、というのは、不合格の蓋然性がかなり高いということです。課題にしても、きちんと進めてきたのは、2名ほどです。そのほとんどが最後はもうまったく提出しなくなった。終わりきれていないままに打ち切りです。これを不完全燃焼と言わないでなんと言うのでしょう。だから今小6にやっている過去問合格法は竹の会としては窮余の策なのです。昔の方法を使うしかないという苦渋の策です。過去問合格法は力不足を実に明瞭にする。できない、だから白紙です。これは平成20年にわっとやってきた小6たちばかりの指導のときに思い知らされました。過去問を使ったのですが、そのほとんどが白紙で出してきたのです。猫も杓子も都立中へという時代でした。竹の会がアホばかりの公立小の子たちに悩まされて、その指導の必要性を痛感し、どれだけ研究に時間を費やし今のような体系を完成させてきたことか、すべてはそういうアホの存在があったからです。公立小というのがほんとうにバカばかりです。「よくできる」が8割前後ある、いわゆる優等生でも、わたしから見ればそのままでは使いものにならない。しかし、優等生なら訓練すれば、磨けば玉(ぎょく)になる。ただ磨きをかけるのは小4早期からでないと間に合わない。磨きには時間がかかるからです。一旦磨き始めたら中断はしてはならない。中断すればすぐ曇る。ずっと磨き続けなればならない。8割基準に遠く及ばない子の家庭ほど九段や都立中高一貫校に我が子を行かせたいと考えるようです。そういう子たちが大挙して大手塾に入るから、大手塾は大賑わいです。大手にはそういう家庭というのは大きな市場なわけです。かつてわたしがアホばかりと慨嘆した層が大挙大手に流れこんでいるのだと思います。誤解してほしくないのは、竹の会では小4早期にA合格すれば合格できる、ということで、仮合格でも合格はできないかもしれないが、かなりの実力はつけられる。しかし、だからといって「できない」子たちが竹の会にやってくるのはわたしの本意ではない。8割基準を満たさないのに入会試験を受けに来られる方ばかりでそのほとんど仮合格も出せないで不合格になっています。おそらく竹の会なんかの入会試験はたいしたことはないという意識があるのかと思います。その証拠に入会試験のことはまったく心配しないで、やたら入会後の瑣末なことを気にかけている親がいました。

 過去問合格法は小5入会、レジュメ不完全燃焼という現状の、わたしが出した最終攻略法です。これから冬期が終わる8日までやれるだけの過去問をやります。一度やった過去問はすべて7回解き直しです。誤解してほしくないのは、これまでやったレジュメシリーズの解き直しも当然やってください。「推論を鍛える」シリーズ、「推論算数」シリーズ、「撰」シリーズと人によってやったレジュメは千差万別です。いちばんこなしている人だと、さらに解き直しの負担はあります。いいですか。これからは解き直しが勝負です。何回も解き直して自分の肉となり血となるのです。作文の過去問については、添削の前に、わたしの作文例を作成しますので、やや遅れての返却となります。

 先ほど中断すれば曇る、と言いましたが、「覚えた術技が身につくまで、時間が要る。その時間が経つと、次の術技に進む。いちどきにてっぺんへ駆け上がるような真似をするな。一歩ずつ、地道に歩め。」(小説「伊藤一刀斎」から)ということです。補足です。

 ◎わからないという問題についての解説は百害

 「わかりません」という子にどう対処するのか。時期もある。今の時期の小6のゑわからない」は、本番でも解けない、という実質のもの、だから解説読んで無理にわかろうとするのは、意味がない。「わからない」というとき、わたしは正直説明するのが辛い。それはその子の能力の足りないことを証拠で示されることになるからである。特に、思考の型、手順というものの研鑽をそれなりにやってきた子の「わからない」はその子の能力の限界を見る思いがあって辛いのである。こういう子が将来合格できるのか、という不安もある。しかし、28年には、ほとんど合格はんこのとれなかった子が2人も合格しているから、わたしの思いがいい方に外れることがあるという、そこが救いではある。「わからない」というとき、わたしがやるのはそのわからない問題そのものの解説ではない。いやその問題の解説をやることが実は最近多い。これは仮合格者が多いからである。本来、問題を考える手順としての思考枠組みをまず教えこんでから、問題を考えさせる、それで自ら考えて解いたということにする、それが指導である。ところが、問題の事実分析の段階でもう混乱してしまう。事実がまったく類似していないとその応用が利かないというのは、能力的に限界があるということです。こういう子が伸びていくということは実はない。わたしが「この子は伸びる」と思うのは、そういう限界を感じさせない子です。

 塾の講師とか、家庭教師というのが、つまり「教える」ことを職業としている人たちが、子どもを伸ばすことができないのは、「教える」からです。「教える」という行為は、とりもなおさず、思考停止させることであり、実はかなりに危険な行為なのです。だからわたしなどは「わからない」というときに、まず教えたものかどうかで迷います。教えるとしても、どこまで教えるか、と考えます。事実把握の段階゛「わからない」と言っていることも多く、事実を算数的に「読む」、「組み直す」ということをして見せる、そういうところを師から学ぶ、学んでほしいと思っています。指導というのは、実に微妙で機微に富んだものであり、その子の思考を生かす指導を常に頭の中で意識して、教えているわけです。「教える」ということが害とわかっていながら教える、それはあたかも抗生剤が害と分かっていながら投与する如し、似たような心境です。教えるのは辛いことです。できるなら自ら事実の意味を理解して正解して合格はんこをとってほしいと願うばかりです。竹の会には「合格」はんこのほかに、「準合格」はんこ、「半合格」はんこ、「小合格」はんこ、「大合格」はんこなどがあります。準合格は何度か間違いながらもとにかくも自分で解いた証しです。その他のはんこはわたしの失望の程度できまります。大合格は「よくできたな」です。小合格はかなり失望している。半合格も失望です。不合格はんこはもう一種の罰です。できるはずの問題ができないからです。できないのが悪いというわたしの気持ちがあります。「こんな問題もできないのか」ということです。「できなくても無理もない」というときは、「理解済み」はんこを押します。もちろん説明します。だから理解済みです。

 ◎すべて勉強姿勢の問題

 指導時間中にマンガをかく中学生は勉強姿勢に問題があるということですが、勉強姿勢ということで子どもたちを見れば、よく見えてくるものです。何が見えるかと言えば、その子の生存にかける真剣度です。わたしは競争こそ進化を促してきたと考えていますが、小学生にも、中学生にもこの自覚の乏しい子というものはうようよいます。競争回避、現実逃避は、子どもの専売特許かと思いきや、最近は大人も例外ではない。ストレスに耐えれない大人が増殖している。社会というのはストレスでできている。人間というやっかいな代物で妬みやら欲やらでストレスを間散らす。だから社会はストレス耐性がないと生き抜いていけない。しかし、バカな親がたくさんいて現実に背を向ける。競争を回避すること、逃避することを平気で子どもに習慣化させてしまう。習い事、稽古事、スポーツは一歩間違えば、勉強という競争社会を生き抜く正道からの逃避の道具となりかねない。勉強姿勢の希薄な子というのは、この生存の原理が理解できていない、それほどに能力が低い、ということにほかならない。生存するというのは、どういうことか、わかっていないのは、親の過保護のせいでもある。あまりにも現実を遮断した世界の中に子を閉じ込めて完全コントロールしすぎると、ひ弱で逃げてばかりの、競争を嫌がる子にしてしまう。これは社会が競争であり、生存であるという実質に反する育て方ではないか。

 勉強姿勢ない子は生存という本質においてすでにして問題である。竹の会は、わたしは、勉強姿勢のない子の指導はしない。

 

 

 

 

ページトップへ