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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

最低でも都立戸山/小石川、桜修館への道/バカの鋳型/竹の会に出会う幸運

2016.07.22

 おはようございます。本日はまるで夏の真っ直中にいることを忘れるほどにひんやりとした冷たい空気が漂う日ですね。真夏に訪れた軽井沢は確かに肌寒いほどであったし、箱根の夜も窓から流れこむ、冷たい空気は軽井沢を思わせました。もう長い間、そういう体を休めるということを忘れたようにはたらいてきた。秋の京都が見たいと思い立ち、11月のもう更けゆく秋の中を新幹線に乗って京都を訪れたのは3年前のことか、京都大学を受験した十代の頃の京都はまだチンチン電車がノロノロと走っていた記憶があるけれど、今はもうすべてバス、地下鉄なんかはないのは古都の景観を壊さないためなのか、今年こそまた京都をと秘かに野心を燃やしています。

 竹の会、わたしの竹の会は昔とはずいぶん変わった、とは思う。かつてよく心ある人たちが言ったように、「先生、竹の会って進化する塾ですよね」とある卒業生に言われたことが、鮮明に蘇る。毎年、毎年受験を経験し、そのたびに反省をして、方法を模索した。いい方法を求めて本を読みまくった。そんな創世記の竹の会の頃が懐かしく思い出されます。代々木中学でまだ1学年200人以上いた頃、学年でビリから1番とか、3番とかの子たちが通っていた時代、社会2点とか、いたっけ。オール1の中3女子もいた。問い合わせの電話で「そういう子を専門の塾」と誤解されたこともあった。本来、わたしは、天才を導いていくときこそ生き生きとしていたはずであった。ところが、できない子たちを導くところでまたまた能力を発揮してしまった。母が、「たけちゃんは、塾が天職の人」と言っていたのを思い出す。自閉症の子も少なくとも2人はいた。いずれも進学できた。不登校の中学生もいた。不登校だと内申はオール1になる。それでもがんばって、当日点450点以上とらなければ合格できない中、合格した。都立鷺宮だった。学年1番はあたりまえ、中学の学力もない生徒ばかりで、授業が易しすぎて、ぼんりやりしていると、教師が、「馬鹿にしているのか」とよく切れたらしい。かれは高校の内容を竹の会で学んだ。わたしはまた不登校とか、中退なんかを心配したけれど、とうとう大学受験までこぎつけた。大学受験で都立青山に行ったヤツらを見返せばいい、と言い続けて励ましてきた。千葉大工学部、東京理科大にも合格した。不登校の子がりっぱに更生した。発達障害の子もいた。気長に教えて、割合までなんとか理解させることができた。代々木中や上原中の不良もずいぶんきた。こういうヤツらの扱いもわたしにはなんということもなかった。女番長というのもいた。わたしはもうどんな子でも気長に教えてきた。だからもういい、今は本来の、わたしの教えたい子たちだけ、を指導したい。渋谷に移転したとき、そう決めた。もう、勉強しない子たち、できない子たちの指導はいい、わたしは向上心のある、上昇志向の強い、勉強する意思のある子たちだけが竹の会にきてくれればいい、そう決めた。正直、できない子を指導するのに疲れてしまった、本来のわたしの最も得意な高度な指導技術、知識を眠らせたままで竹の会を終わりたくはなかったのです。あの頃のようにもう若くはないから、今はわたしの思うようにやりたい、そう思っています。

 わたしだけが、竹の会だけが、日々指導の妙を追究して、完成させてきた竹の会という指導法、考えるという芽を大切にして、いつしかどんな難問にも「考える」姿勢で臨むようになる、タフな精神を持ってほしい、竹の会の、わたしの思いは、いつもそういう願いに満ちていた。だから、カンニングしてマルをもらうという子、答を自分で考えないで盗むという子が、信じられなかった。できる子たちが、合格はんこをとっていく中で、できない子たちはそうするしかないほどに追い詰められていたのか。いやできる子ができるを装い続けるためにカンニングをしたこともあった。淘汰されるというけれど、そういう子を退塾というかたちで排除していくしかない、しかし、いったん心を通わせた子らにそういう判断をすることの難しさに幾度となく直面してきた。ブログを誤解して、切れた母親が退塾を申し出る、そういうこともあった。早め、早めに退塾を処置する、そうしなければ反って恨まれることになる。いつも学ぶことばかりだった。

 子どもは、「装う」ものだ。できるを装う。頭のいい子はいい子で周りにできると思われ続けていたいから、装う。できない子もときにはできるのだということを装う。子どもは装うものである。しかし、装っても実力はつかない。一度はできない自分をさらけ出し、そこから真の力をつけていかなければならない、とわたしは思っている。しかし、世の母親は、装った子を真実の子と勘違いしている。子どもの言うことをそのままに真に受けるバカな母親が多すぎる。

 大手だけではない。親たちが家から近いという理由で選ぶ地元塾、そもそもそういう塾そのものが旧態依然としたお仕着せのテキスト、授業、「教える」を三種の神器として疑わない、頭がカチカチの塾長、雇われ講師たちである。四谷大塚のテキストを有り難がってやっている塾も多い。準拠塾というのだそうな。頭のいい子も悪い子も同じ画一化されたテキスト使って、なにも不思議がらない親たちの頭の程度はそんなものでしょ。

 大手で無思考という鋳型にわが子をはめて、まだ頭の柔らかい、それこそどうにでも形を決められる時期、それが小3、小4という時期です、そういう時期に無思考という鋳型に無理矢理にはめこんでかちかちに固まるまで、大手で過ごす、あるいは旧態依然の地元塾で過ごす、これが何を意味するか、そんな疑問も持たない親たち。大手を「信用する」という根拠は、理性ではない、感情である。根拠は感情にしかない。「家から近いから安心」、「大手だから安心」、「みんな行っているから安心」、すべて感情である。めんどうくさいから考えるのは後回しにして、とりあえず近くの塾に通わせる、それが根拠でしょ。

 ひとたび鋳型にはめられて固められた子の脳は元には戻せないほどに鞏固である。大手で1年でも過ごした子というのは、いったんはめられた無思考の鋳型から取り出しても、その型をなかなかに崩さないものだ。最初に型にはめられたらもはや取り返しのつかないほどに柔軟な思考を、型枠のない柔軟な脳を取り戻すのは難しい。

 鋳型にはめられたことのある子の脳は、おそろしく限界、主観的限界に満ちている。自ら作り上げた限界である。主観的に決して崩せないと信じて疑わない壁である。だから、「いくらに考えてもも無理です」とみな同じことを言うのです。壁を信じてその壁は先生が他人が取り除いてくれる、そう教えられてきたのです。考えるというのは、そういうものではない。生みの苦しみというけれど、考えるというのは、とても苦しいことなのだ。もうひとつのことがわからなくて一日でも考えている、考え続けている、考えるというのは、そういう姿勢のことなのだ。「もう30分、いや1時間も考えたのですけどわかりません。教えて下さい。」と言う。この子には、考えるということのほんとうの意味がわかっていない。考えるというのは、とにかくなんとか糸口を見つけようとする姿勢のことである。仮定して試す、そういう繰り返しをあきらることなく続ける姿勢である。考えるに終わりはない。先生のわかりやすい説明を、いつか助けてくれるという姿勢こそ考えるということを否定する鋳型にほかならない。

 東京の渋谷、JR渋谷駅から歩いて、7分ないし10分ほどのところに竹の会はひっそりとあります。かつては交通不便な元代々木というところにありました。地元塾でした。竹の会を始めたのは昭和60年の10月のことでした。1985年10月です。2012年5月6日に今の地に移転したのです。東京の渋谷に「こんないい塾があるんだよ」といつか言われるようになったらいいな、と思い続けてきました。竹の会に出会った人たちが、「幸運だった」、と言ってくれることがよくあります。そういうときはわたしの願いが通じたのだととてもうれしいです。

 東京の渋谷の駅近くに「こんないい塾があるんだよ」と言われるようになりたい。

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