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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

最低でも都立戸山/小石川、桜修館一直線/勉強しなくても困らない子たちと寛容な親たちの行き着く先

2016.06.29

 おはようございます。今日は一日どんよりとした天気が続きそうです。夜には雨も覚悟しておいたほうがいいようです。本日は、渋谷Aの指導日ですが、学校が6時間で遅れる、移動教室による体力消耗、体調不良、移動教室でお休みなどいろいろと連絡が入っております。元気にいてくれるのがいちばん素晴らしいことですけど、私を含めて生身の人間ですから、やはりハラハラドキドキすることもあります。

 いよいよ7月に入ります。これから7月、8月、9月と一気に過酷な季節に突入ですね。そういえば今年はまだ台風も来ていない、これはいったいどうしたことなのか、例年なら6月あたりに襲来しているというのに、不気味なことです。

 竹の会が渋谷に移転して5回目の夏となります。小6のみなさんには試練の夏となるでしょう。今年の小6は正直合格の見通しが立っていない。小4に入会者がいなかった、ほとんどこなかったことがすべてだ。これという逸材もいない、いろんな意味で勉強量も能力も不足している。救いは気持ちは「ある」ということか。なんとかしたい、今年だって「合格はんこをほとんどとれない」子たちが、想定外の合格をしている、だから今の竹の会なら「できなくても受かる」ということもありうるのかもしれない、と変な期待もしている。とにかくどこまでやれるか、勉強してくれるのか、試してみる価値はある。

 ただだからといって基本もないのに適性問題をやるのはやはり無理で、どうしても思考力訓練をしながらという、なんとも効率のよろしくない、遅々たる進み具合ではある。竹の会に小4からきて鍛えていればここまで苦労することはなかったろうにと思ってはみてもしかたない。もっとも小4からきていてもなかなか能力開花しないという子もいるので早く来たからいいとは単純には云えないけれど、そういう子だって早く来なければ状況はもっと悪かったはずでやはり早く来た方がいい。

 あれだけ優秀な子たちがそろっていた去年の夏にしても1日7時間という勉強はやはり壁であった。だからあまり期待はできないのかもしれない。高校入試とちがって都立中受検では実力に見合った学校にするという操作もしない、みな勝手に行きたいところを受けるわけで、もし今年そういう操作をしていればほぼ全員合格していたかもしれないけど、それは現実にはない。みな「小石川に行きたい」とか、「桜修館に行きたい」とか、能力、努力に見合ったところを受けるなどという考えは端からないのだから。

 小学生の指導というのを本格的に始めたのはいつの頃からか、いや昔から小学生はいたけれど平成十年代にはたくさんのできない子たちが溢れていたような、あの頃からか、小学生の指導に悩み始めたのは・・・。世の中にはほんとうにできない小学生というのがたくさんいる、通分がわからない、割合なんかまともにわかっている子なんてどれだけいるのか、そんな思いをずっといだいてきた。平成17年公立中高一貫校制度が始まったあたりか、平成18年の4月に小6が突然やってきた。九段を受けたいのだという。この年はほかに東大附属を受けたいという双子もやってきた。3人の小学6年生の指導が始まった。過去問といってもまだ1年分があったのみ。それで取りあえず計算と割合をやってみた。割合は塾教材を使った。不満だったけどいいテキストはない。過去問をとにかくやらせた。作文も練習はさせたけど絶望的なくらいに書けなかった。九段の受検倍率は11倍にもなった。東大附属は双子枠で、20数組ほど受けて10組は合格できるはずだった。幸いにも全員が合格した。竹の会伝統の過去問合格法というのを使った年だった。あの頃からわたしは来る日も来る日も算数指導のための効果的な、いや画期的な方法の開発に明け暮れた。わたしが新宿の量販店でたまたま出会ったパソコンソフト、それは数式専門のソフトであったが、何万かしたのだと思う、それを買い入れて、使いこなすまでにまた何年かが過ぎたのであろう、平成18年までには、試作のレジュメなんかを単発で作ったりしていたが、まだまだだった。平成20年になってもまだ過去問合格法全盛でパソコンを使った教材は補助だった。もっとも平成17年には高校入試のためのレジュメの制作を本格的に始めているからすでにその頃にはかなり使いこなしていたのだと思う。平成21年、22年の2年間で飛躍的に進化したわたしの技術は、多くのレジュメの制作を可能にした。小学生の指導のための大量のレジュメを執筆・制作した。平成23年、24年、25年とレジュメ制作技術の精緻化にともない、多くの作品と呼べる秀作を完成させていった。

 ただ渋谷に移転しても、竹の会を知る人はほとんどなく、知名度などないに等しい、それで人は集まらなかったのだろう。竹の会の名を広める手段、方法で壁に突き当たっていた。渋谷に竹の会あり、と言われるような塾にしたい、との思いは果たせずに、竹の会をどう人々に知ってもらうのか、壁に突き当たったままに月日が流れた。平成26年にはとうとう新規の小4,小5が、ほとんどこなかった。27年にはこない小学生を待つことを諦めて、中学生指導の再開に踏み切った。平成27年9月のことであった。これまでのHPをすべて廃棄して、新しいHPにすることを業者に委託したのは。それまでも「竹の会はネットで有名ですよ」とよく言われてきたけれど、その実感はなく、専門の制作会社に依頼して、長年書いてきた「草枕」もHPの中に移転するなど、ウェブ対策に力を入れた。そのおかげか、宣伝などほとんどやらないのに、竹の会の知名度がしだいにあがっていったのがわかった。

 わたしは、大手しか知らない、あるいは巷の塾しか知らないで、これが塾なのだ、という親子、特に、大手に洗脳されきった親や子を多く見てきた。それでももともと優秀な知能を持ち合わせているならましで、そうではない、学校の優等生クラスでも、ポシャる、そういう大手になぜそこまでこだわるのか、不可解な話であるが、権威主義的な性格というのが多くの親や子までも洗脳しているとすればこれはいたしかたないことではある。権威に弱い、マスコミが「いい」と言えばすぐ走る、大学の権威が言えばすぐ飛びつく、とにかく権威が何か言えば反射的に行動する人たちにはとてもとりつく島はないわけである。

 竹の会を知ってもらうにはどうすればいいのか、わたしはさしたる宣伝手段ももたない弱小塾の悲哀を感じながらも、黙々と「草枕」に思いを綴ってきた。時には、見知らぬ読者から、「先生、最近投げやりになっています」と諫めるメールも届いた。「草枕」を3年も5年もずっと読み続けている、という読者がたくさんいることを、知らされることもよくあった。毎日、「草枕」を書き続ける、これはこれでなかなかに苦しいことではある。休むと、すぐ「先生に何かあったのではないか」と子どもが聞いてくる。毎日、よくあんなに書くことがあるな、と言われる。ただ日々思ったことはいつも書き留める。Pagesというアプリに書き留める。それで朝パソコンの前に座り、何もないままに書き始める。何か屈託があると書きやすいけど、平穏なときは書くことも実はない。時に「草枕」は怒りであり、嘆きであった。わたしの悩みの独白の場であったやもしれない。

 世の中には、勉強しなくても全然困っていない子というのがいる。親もそれで特に困っているようすもない。自分の子が勉強熱心でもないことにさほど苦痛も感じない親というのがいる。むしろ部活やったり、習い事や稽古事やったりと大忙しで勉強どころではないというのでも別に問題もなさそうなのだ。塾もこういう親子にとってはさしたね意味もないのであろう。

 勉強しなくても困っていないというのは、親が仕向けた結果であろう。親がそもそもに勉強というものに執着心というものがないのかと思う。最近高層マンションで生まれて育った幼児というのが、高所に対する恐怖心というものを欠くことが問題とされている。怖さを知らないので、平気でよじ上り誤って落ちる事故も起きている。勉強しなくても困らないというのは、勉強しないということが、恐怖にならないということである。親がしっかり庇護し、保護し、ホローしているということである。いずれ独り立ちして生きていくということを全く前提していない子育てである。飢餓という恐怖、住むところがないという恐怖、貧困の恐怖、人というのは、いくらバカでもさまざまな恐怖を想像するからそれを避けるべく行動してきた。いわば生存本能に動かされて行動してきた。ところが、過保護な親というのは、そういう親は結局自己愛の塊で、子どものためと言いながら自分のために子どもを利用しているということはさておいて、子どもから様々な恐怖心をなくし、足りないものはないほどに子どもに与え、勉強でさえも生存とは関係のない、したがって恐怖心もない、どうでもいい存在へと追いやってしまったのである。そういう子が贅沢し放題のバカがいずれ社会に出てバカをまき散らす。我慢のきかない、すぐ切れるバカ者、いやワカ若者の増加は避けられない。世の中にわけのわからない親がいる限り。

 いや勉強というものを大切なものだと考えている親もたくさんいるわけである。が、勉強しなくても別に困らないという親もなんの恐怖心というものの裏づけもなく、したがって教育というものをまるでしない親が、形の上では勉強というものは大切なものだという態度をとる、そういう親も大量にいるわけである。自分の確たる信条もなく、大勢に流されやすい親の層というのが、世の中の多数なのであろうと思う。そういう親は多分に権威的であり、大手を大手というだけで信用する人たちである。

 勉強というものが、恐怖心、そして究極的には、生存本能と結びつかない、遮断されてしまったのでは、教育になるまい。将来独りで食っていく、だからどう生きていくか悩む、それでとりあえず、とにかく勉強するしかない、勉強しないということのもたらす恐怖、それは生存本能から自然に湧き起こる恐怖なのであり、勉強というものがなぜ必要なのか、親は教育しなければならない。

 何でも欲しがるものを買い与え、それも高価なものをなんの努力もしないで手に入る環境を与えて、親は喜んでいるけれど、その結果、ほしいと思うものは何でも手に入れなければ気の済まない、わがままで我慢するということを知らないバカ娘、バカ息子を作り上げる。こういう親の罪は、教育しないこと、つまり我慢するということ、忍従する、耐えるという感情を欠落させてしまったことであり、それは社会では使いものにならない子にしてしまったことである。こういう子というのは、まず恐怖心というものがまるでない。だれかが助けてくれる、それは当然親しかしないのだろうけれど、そういう恐怖心というものを感じながら思考、行動してこなかった人間とはわたしは関わりたくない。高層ビルの高層階の欄干によじ上っても落ちるという恐怖心もない、そもそも落ちたらどうなるのかという想像力もない、そういう人間に育てる親とはいったい何なのか。

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