2025.04.01
🟫慶應女子の研究
本年の、わたしの課題は、慶應女子過去問40年の研究‼️です❗️
慶應女子の数学は、正直慶應高校より、難しい。慶應女子の偏差値は、女子最高。もっとも東大志望の女子は、お茶の水か、豊島岡、そして日比谷に流れる。ただし、慶應女子は、東大志望の子たちも受ける。慶應女子に合格したうちの45%ほどが、東大をめざして国立、日比谷に流れると思われる。その意味でも、やはり慶應女子は、特別である。
わたしは、令和6年に、慶應女子の過去問を改めて解く機会があった。中3になって慶應女子を受験すると言う子が、出たからだ。中1のときからの志望ではない。それならそれなりの指導がある。竹の会では、中1から指導してきた子が、突如として、難関校受験を言い出す例が多い。それは竹の会において、数学、英語の力が、急成長するからだと思う。しかし、如何せん最初から志望して、そのつもりで指導してきた場合とは、自ずから成功率は異なる。
令和5年には、開成と筑駒を制し、合格者を出したが、このときに、開成と筑駒の対策は完成させている。
既に、竹の会では、慶應女子の問題について、かなりの研究レジュメがあり、受験生のいない今年に、40年分の解説を完成させておきたいと考えたからである。
慶應女子の研究は、慶應の対策として、大きく資するはずである。というか、本年の受験生は、早実を受験しているが、国語、英語で合格点、数学で失敗したのだが、数学力がなかったわけではない。ただ早実を受けると言い出したのが、中3の2学期からであり、中1の時から準備してきたわけではなかった。竹の会の例によって、メキメキと力をつけていって、それなら早実をという流れだった。彼は、早実に向けた訓練が功を奏して、都立青山で、高得点合格している。大学で早慶を取ればいい、一橋だって、東大だってある。可能性は無限に広がる。だから独自校でいいのである。
今回、慶應女子の研究だけは完成させておこうと考えたのは、現中1の早慶受験を睨んでのことである。
🟫「国語ポイント集」は、開成、早慶を視野に入れたものになる‼️
40年高校入試と中学入試を指導してきて、いくら見回しても、国語についての、完全な参考書を知らない。次の竹の会の参考書は、是非とも国語に挑戦しなければならない、とは、必然だったかもしれない。
書くからには、これさえ読めば、国語は合格点が取れる‼️というものを書きたい、そう思った。
書き始めて、どうも一冊には収まりそうもない、と予見した。
そこで、2分冊と考えたが、国語の奥の深さを考えると、3分冊になるかもしれない。
まず語彙から取り組んでいる。これだけで、第1分冊になるだろうか。できれば、古文の要点までは、取り込みたいと考えている。
古文に関しても、適切な参考書がない状態である。高校で学ぶ古文ほどに専門的ではなく、しかし、文法、古語常識のミニマムな知識はコンパクトに学びたい。そういう参考書が皆無である。この書は、そういう役回りをも演じてみたい。
文学史についての入試常識もまとめておきたい。難関私立では頻出である。これも徒に詳しいものは使えない。老婆心で細かくなるのは使えない。そういう意味で適切な参考書はない。慶應女子などは、ピンポイントで文学史の知識を訊いてくる。その辺を私なり分析しておきたい。
国文法は、本来別に参考書で学ぶことを前提として、その要点のみをまとめておきたい。
さて、最後に、もっとも重要な、読解である。原典と問題の両方に著作権の問題があるため、これを避けて、わたしの読解論を初公開することになる。
入試国語における読解は、原文の読解と、設問の読解にわけられる。
原文の読解は、普通に読み取りである。何が言いたいのか、これを読み取る。文章を読む。前振りの文章からは、「普通は〜なのだが」と前振りを受け、筆者の論が示される。
筆者は、何かを訴えたい、わけである。筆者は、「〜べきだ」と考えて現状を憂い、現状の問題状況を語るであろう。その上で、それらの問題点の矛盾点を突き、常識論に突き合わせて、おかしな点を浮き彫りにするかもしれない。とにかく筆者は、何らかの手を使って、その理不尽さを論証するであろう。
筆者の思考を追う‼️
文章というのは、具体的なものからその抽象化、そして抽象的なものから具体的な例示への繰り返しで構成される。
具体的な例示は、抽象的に述べた部分をわかりやすくするためにする。
抽象的文言は、筆者の価値観(定義)を命題の形で示すであろう。筆者は、とにかく何かを述べては、抽象化を試みるであろう。抽象的文章は、さらに抽象的文言で、言い換えられることが、頻繁である。抽象的表現を抽象的に言い換える。これが読解を著しく難しくしていることは確かである。選択肢問題で、選択肢が絞れない原因は、選択肢の文言そのものが、本文の抽象的表現の言い換えになっているからと思われる。いわゆる抽象的選択肢である。これは、翻訳がいる。つまり、読解問題の抽象的部分の解釈は、古文並みに翻訳がいるのである。だから、国語の勉強において、ひたすら問題集を解くだけでは、国語の力はつかないわけである。古文は、外国語として勉強しなければならないが、現代文も同じと考える。現代文は、単に、わからない言葉を辞書で引くというレベルの問題ではない。言葉の文法的働きを踏まえて、抽象的表現を翻訳する方法を学ばなければならない。
こうして、現代文の読解とは、抽象的言語の翻訳であること、その前提として、抽象的言語を抽象的言語で「言い換え」ることを学ばなければならない、ということである。
私たちが、学ばなければならないのは、抽象的言語の抽象的言語による言い換えである。言い換えというからには、言い換え前後の表現は、意味的には、同じでなければならない。しかし、現実には、似ても似つかない表現なのが、普通である。意味の同一性の判断が容易ではないのだ。同一性の判断においては、それぞれが何を言っているのか、を確定し、比較するのが、普通である。あるいはそれぞれの命題から、共通点を探すことである。このとき、「…とは、言い換えれば…」、「翻訳すれば…」という操作が必要となることが多いのかと思う。
読解とは、要は、以上のような思考訓練を言うのではないか、と思う。して見れば、ただ問題集を解いて答え合わせをするだけでは、読解の向上には、少しも資していないということになる。
こうして「国語ポイント集」では、著作権のため、原文を使用できないことから、抽象的表現を抜き取り、それが他の箇所若しくは選択肢でどう言い換えられているか、を整理したものになろうか。
物語文のこと
物語文は、物語の構造、いわゆるプロット(あらすじ)を把握することか、と思う。その中で、主人公の心情は、トラブル(状況)における主人公のセリフから、主人公の心情を推測する、そういう作業になるのか、と思う。ここでも、国語の問題集をただ解くだけで、◯か✖️かで一喜一憂するやり方では、物語文の読解は向上することはない。必要なのは、物語の構造、普通は、起承転結、を掴み、その変化の中で、先のトラブルとセリフから心情把握をする訓練をすることである。
物語文についての「国語ポイント集」の態度は、トラブルとセリフを心情に翻訳することを取り上げることとなろうか。