2025.05.12
🔷「普通」というキィーワード‼️
前提には、普通の見方がある。
じゃー、なぜ普通じゃないのか❗️
この場合の普通は、普通じゃない場合との対比で、意味を持つ相対概念である。
一般的に、さまざまな事象について、普通というとき、どういう定義づけをしているのか。普通というのが相対概念であってみれば、客観的な基準というのはないのではないか。
テレビドラマ 「刑事コロンボ」で、コロンボは、「奥さん、わたしはどうにも腑に落ちないんですよ。いえね、わたしは細かいことが気になってしょうがないですよ。普通なら犬は吠えていたはずですよね。ところが、なぜかだれも犬の声を聞いた人がいない。これがわからない」
こういう状況なら普通はこうなる。なのに普通じゃーない。
ここから、私たちは、普通と普通じゃないを分けて考えている。
司法試験論文試験で、「普通のこと、あたりまえのことを書いて来ました」という合格者がいた。普通とはおそらく教科書に書いていることというほどの意味でしょうね。教科書に載ってないような特別の知識は要らないという意味合いかと思います。もっとも、大学には、いわゆる文部省検定済教科書というものはない。それぞれの教授が、指定したものが、その教授の教科書となる。あまり売れない教授の著書かもしれないし、別の人気のある著者の本かもしれない。法学には、いろいろ専門書、すなわち体系書がある。東大の先生が書いた、評判の本というのも多い。だから、教科書というのは、大学の先生が講義で使っている、というくらいの意味である。むしろ司法試験などの場合、定番の概説書や体系書というものがあり、そちらを教科書と言っていることがよくある。
普通というのは、あたりまえのことか。もしそうなら、それは、常識と同義なのか。しかし、どう言い換えてみても、常識もあたりまえもやはり漠然としている。時の主流がその内容を盛るのからである。
だから時代によってその内容も変わるのは間違いない。
しかし、私たちが「普通」と言うとき、その状況では、こうするのが、一般人の取る行動であろう、と内容を盛り込んでいる。
さて、なぜこのような議論をここでやっているのかというと、現代文である。現代文の解析に、この二項対立が使えないか、と考えたのである。
普通の人なら、こういう見方になる。しかし、その普通は実は普通じゃないのではないか、と疑ってみるのである。あるいは、普通ならこういうふうになる。しかし、その普通ではないじゃないか、と疑ってみるのである。
現代文、評論文は、二項対立で書かれていることが多い。その場合、普通、非普通の二項対立ではないことが、ほとんどかもしれない。しかし、一方を普通として、他方を非普通と置き換えることはできる。
そういう分析法を取ると、自分の現代文解析スタイルというものが、確立されるのではないか。
小説も実は二項対立で書かれている。善と悪、出世と没落、生と死、などなど。ただ評論と違い、対立する価値観は、物語の表には出てこない。それは、ストーリーで示される。小説は、何を読み取るのか。ほかならない、物語の偏見のない読み取りではなかろうか。小説、すなわち物語を読んでいるのだ、ということを前提としなければならない。内容を現在の自分に置き換えて読むのではない。飽くまでも作り話である。作り話だから、現実とは違う、作者の手の内で決まる。だから作者の手の内、作者が何を考えているのか、私たちは、小説で書かれた言葉で推測するしかない。これは、言語論的転回に付合する。世界は言葉でしか認識できない、とする、現代の、到達した哲学の考え方である。
言葉がなければ、世界もない。言葉で表現できないものは「ない」。
小説を読むということが、このようであってみれば、わたしたちは、言葉こそが、言葉で作られる世界こそが、認識の限界と悟らなければならないであろう。小説の読解は、言葉の、解釈にほかならない。
この考え方は、数学の解析法にも通用するかもしれない。普通のアプローチ、普通でないアプローチ、後者にも複数の普通ではない方法がありうる。
こうして、思考法一般に広げる可能性が見えてくる。