2025.04.26
🔷合格をもたらすもの
①どれだけ早く終わらせたかである。遅ければそれだけ合格は遠のく。
②レジュメ正解率は70%を割ると合格は厳しい。
①は、勉強量(努力量)と指導時間量に比例する。
②正解率とは、自分で解いたことが前提である。したがって、「わからない」と言って、説明、解説を聞く行為は、実力は全くついていない。説明、解説で「わかった」と終わらせても、終わったことになっているだけで、実力は、そのままである。
正解率は、そのまま、その子の能力の指標となる。正解率の高い子は、能力が高いから正解率が高いのである。
①は、竹の会の通常コースの回数だけでは、まず足りない。だから季節講習があるのだ。しかし、ここでも、出ないという選択をすれば、それで終わりである。仮に、出たとしても、最低の時間コースなら、通常コースのカバーもできない。そもそもカバーではなく、早く進めるための季節講習である。カバーでは、現状維持が関の山である。能力が足りなければ、それはさらに致命的になる。能力不足なら最大の時間をとることである。しかし、能力が酷ければ、それも効果薄かもしれない。どれほどの能力かで決まる。指導時間を増やすことで成功する能力ということである。実は、能力が高ければ高いほど指導時間は多い方が成功率が高くなる。能力が高い子の親ほど指導時間を最大にすることを当然と考えているのが経験上明らかであった。つまり、成功する親は受験は指導時間が多いほど成功することを常識の範囲内のこととして理解している。
さて受験は「正解率が高い」ほど成功率も高くなる。このことは竹の会の合格者が直前期に示した正解率で実証済みのことである。だから直前期に正解率の低い子は予想通り受からない。
正解率の正体
やったことのある問題パターンが解けてもそれは合格を約束しない。見たことのない問題に対して、事実を解きほぐし、事実を翻訳し、常識にしたがって、推理・推測をし、論理で担保し、正解へとたどり着く、これである。
してみると、「常識にしたがって」が重要な意味を帯びてくる。常識とは、スキーマのことである。わたしたちは、予め様々な物事の理解のためのフレームを持っている。それは普通に考えて普通にそうなる、という程度のものである。もちろんスキーマは抽象的なものである。わたしたちの脳は具体的なものを入れるには適していない。抽象的に翻訳して脳に「ああいうもの」というふうにして取り込む。割合なら竹の会の子なら「ミクロマクロで考えるやつ」とか。頭のいい子はこの抽象化がうまいのだ。ノートも抽象化のためのノートならいい。しかし、東大生のノートという本には、網羅的、微細と言っていいノートの例ばかりであった。ありゃー、努力したな、という感覚しかない。違うんだよな。
さてこうして普段の指導の目的はこのスキーマを手に入れることにあることになります。問題を解いて先へ進めるというように誤解する親が多い。それは大手の進学塾のやり方です。竹の会のテキストは、答えが出たら次へ進めるということではなく、本人が問題を通して、事実を分析する経験をし、その事実から算数的な視点でなんらかの関係性を発見し、解にたどり着く、そういう過程を通して、その問題から、スキーマを手にする、そういうことを指導しています。だから親が教えるのは意味がないのです。竹の会が考えさせる塾だということをわかって入会したのではなかったのでしょうか。親が教えて何が悪いと反論する親もいました。いろいろ問題はあります。竹の会の思考段階を踏まえての指導を無視して、とにかく解きさえすればいいと、小学生に方程式まがいのことを教えて、迷惑な話です。明日につながらない教えなんて竹の会には迷惑です。子どもには理解の段階があり、これまでの知識を使って解くことを求めているのに、親の考えた高度な解き方を教えて、「先生、できました」と言われても、そういう子はこれからそのたびに教えなければできないことになるのは目に見えています。
正解率というのは、過去にどんな解き方をしても解けたから、上がるというものではありません。わたしは直前の正解率を考えて指導しています。今、解けない問題が将来の正解率を決めることになるのです。簡単に教えてはいけない。教えるときは、そうした将来の正解率のことも考えて、ここは教えてもいいかな、という細かい配慮の上でやらなければならないのです。ここは面積図が楽だなというとき、いくら考えてもそういう発想は出てこないでしょうから、面積図のスキーマを教えるのです。指導とは、わからないから教える、という単純なことにはなっていないのです。
あなたたちの目標は「正解率」勝負ということをしっかりと自覚して欲しいのです。