2025.02.23
🟪そもそも著者のレベルにないから、読み取れ(理解でき)ないのだ❗️
国語読解法を説く本の欺瞞❗️
読んで理解できないのは、あなたの頭が内容についていけないからだ。足りないのは、著者レベルの教養だ。だから、問題練習ではなく、国語的教養を身につけるのが、本筋なのだ。本なんか、いくら読んでも読解力なんかつきゃーしない。読書したからと言って読解力がつくわけではない。もちろん読書で教養がついた分だけは、読解力に資するではあろう。
多くの塾、大手塾、予備校では、テキストは、問題集を使うのが、一般ではなかろうか。だから、予備校の講師は、もっぱらどう読解するか、その方法論を、いかにも特別という方法、受験生のだれもが無為無策という中で、予備校だけが答えをもっているのだというという状況を作って、これこそが読解の方法だという、虎の巻を売りにして、生徒を集める、商法をとることが流行してきたのだ。だから諸子百家ではないが、これこそがというわたしの方法を売りにする予備校講師が続生する。
さて私たちはそろそろもう気づいていいのではないか。読解法などという特別の方法などないことに。私たちはただひたすらに偏見なしに、先入観なしに、素直に、文章を読むこと、文脈を追うことしか、できないのだということを。
要は、内容を理解し、言わんとすることを読み取るだけのことではないか。ただ、その内容を言葉で表された内容を、実体を読み取れるか、が問題である。そもそもの言葉そのものが、どこまで実体を正確に表現できるのか。言語論的転回という哲学の変革は言葉が言葉として事実とは乖離して動き始めたときに現れた。そうとして、私たちは、学者、評論家など、知的レベルの高い人たちの書いた文章をそもそも理解できるのか。ここでは、偏に、わたしたちの国語の教養が問われることになるであろう。著者の高いレベルの教養にはとても敵わない、わたしたちが、どうして、著者の真の意図を理解できるというのか。理解するには、私たちには、あまりにも、国語的教養がない、のである。
国語ができないのは、あなたたちに、教養がないからである。決して、読解の方法を知らないからではない。あなたたちが、やらなければならないのは、国語的教養を身につけることである。
国語的教養とは何か。
まず語彙力であるのは当然である。漢字、その発展としての、熟語、四字熟語、諺、慣用句、歴史、政治、経済、地理、科学、古典、文学、古典芸能、俳句、和歌、短歌、詩、音楽など多岐に渡る。
それぞれに通暁しろ、というのではない。一通りの理解、定義的な理解でいい、しかし、正確に理解しなければならない。わたしが、本年の目標を「国語ポイント集」に置いたのもそこにある。前年に出した「神の単語集」は7か月を要した。「国語ポイント集」は、第1巻「教養編」と第2巻「読解編」に分けて書くことにした。まず国語的教養を完璧にしてもらいたい。その上で読解という知のはたらきに没頭していただきたい。そういう意図からである。筑駒・開成・慶応女子・都立日比谷・都立西の過去問をベースに仕上げていく方針である。