2025.10.27
🟦読解とは、文章の中に、物語を見つけることである‼️
国語が苦手❗️ 国語の読解ができない❗️
あなたたちは、ひたすら語彙を増やしていったか⁉️
文法を夢中で理解しようとしたか⁉️
語彙、文法を踏まえて、主語と述語の対応を考えながら、文と文をつなぐ「もの」が見えていたか。形式的なつなぎと思想をつなぐこと、そして、文が血液のように、思想を運ぶ、その思想を確かに、観察・確認してきたか、と問うています。
読解とは、文の中に、思想を発見し、その思想が、どのように文という血液によって、運ばれていくかを観察することなんです。思想とは、物語のことです。人は、いや脳はいつも物語を求めています。文章も筆者の思い描く物語を伝えようとしています。その意味で、文章とは、筆者の思いの「言語化」なのです。それは、民主主義という物語かもしれないし、環境破壊という物語かもしれない。とにかくあなたたちは、いち早く文章から物語を読み取らなければならない。どういう物語なのかをあなたたちは想像力を働かせて推測しなければならない。そうである。読解力とは、想像力のことである。物語は、想像を働かせなければ、立体的に、映像として、さらに、プロットの輪郭も読み取れない。
読解ができないならひたすら「読む」練習をする。サッカーで一流になりたいなら、ひたすらボールを蹴ることです、読解の達人になりたいのなら、ひたすら「読む」ことです。ただし、読むとは、想像力を働かせて、文章から、物語を観察し、読み取る、こと、この練習をひたすらすることです。
サッカーなら必死にやるのに、勉強だとなぜ必死にやらないのですか。すぐ「できない」と弱音を吐くのですか。何もやってないじゃないですか。読解力がない、とすぐ観念したように弱音を、吐く。訴える。しかし、あなたたちは、一体どれほど読んでそんなことを言っているのですか。できないなら、できるまで、読むしかないでしょ。ゲームなら親の目を盗んでもやるのに、読むことは一度二度読んだだけですぐ諦める。もっとも大手塾では、国語と言えば、きっと問題集しかやらない。ただ読ませて、問題解かせて、答えが「合った❗️間違ってた❗️」で終わりですよね。「さあ、次の問題」ときっと同じことの繰り返しですよね。それは、国語の勉強ではありません。そもそも大手塾のやり方は、国語がなんたるかを少しも踏まえてないじゃないですか。国語の文章というのは、思想を伝える、単なる言語を伝えるための単なる手段ですよ。言語そのものが、難しいとか、意味がわからない、とか言ってる。しかし、言語そのものに意味があるわけではない。言語は、筆者の思想を言葉で表現したものです。ですから、言語化が、成功しているかどうかはわからない。私たちはひたすら言語の本来の意味を定義を咀嚼し、言語の翻訳をするしかないのです。そうです。日本語なのに、それが言語化の産物であるのなら、翻訳、解釈が必要なのです。だから普段の勉強は、ひたすら語彙を学ばなければならない。漢字を覚える。熟語を覚える。諺を覚える。慣用句を覚える。古くから伝えられてきた、様々な言い回しを覚える。これがサッカーで言えばをひたすら「ボールを蹴ること」なんです。柔道なら技のスタイルをイメージして、ひたすらそのイメージを繰り返す、ということになりましょうか。サッカーは経験はありませんけど、柔道は高校時代経験があります。すべての科目は、サッカーでいうところの「ボールを蹴ること」にあたることをひたすら繰り返すことです。遠回りのことなど一切やる必要はありません。料理人になりたいのに、2年も3年も皿洗いをやらせるなどという古い社会の話しではありません。ボクシングで一流になりたいから、生まれたときから、そのための訓練、サッカーの蹴ることにあたることをやってきた、つまり、英才教育なんです。英才教育ならこうやるだろうということをやるのです。
数学でも、英語でも、大手塾、予備校のやり方は、それなりに効果を発揮してきたのに、国語は、旧態依然とした問題集を解くという、皿洗いみたいなことしかやってこなかった。だから国語では、料理でいう一流の料理人は育たなかった。そういう現状があるから、予備校の講師が、現代文読解法の参考書をやたら書くようになった。しかし、これとて根本的な解決にはならない。本が売れただけです。国語とは何か⁉️その正体を誰も追求しなかったからです。ウィトゲンシュタインの言語論的転回、ここに国語の答えがあります。少なくとも国語の何たるかを語る指導者ならここまで辿り着いていなければならない。子どもたちに、ひたすら問題を解かせる(皿洗いを何年もやらせる)愚だけはしないで済んだだろうに。予備校も大手塾、いや全ての塾が、やってきたこと、それは正体を知らない愚かな行為でした。また予備校、大手塾がやるのだから正しいのだろうと信じた、ステレオ型親も何も考えていないのでは同罪です。
駿台予備学校の国語科講師が東大哲学科出身というのも、頷ける話しでした。そもそも国語という科目は、哲学的思惟と同値なのです。言語論に尽きるのです。それなのに、素朴な頭は、何か実体というものがあり、国語は、国語の文章は、その実体を余す所なく見事に文章化したものと信じて疑わない。そういうことを前提に、学校の先生も、塾の講師も、みんな子どもたちに、国語イコール問題を解く、ということをやってきた。皆真理があり、国語はその真理を言葉で表している、と信じて来た。だから解答合わせは、真理、真実は何かを発表する時間となった。だから「間違った❗️」「合った❗️」と子どもたちは、「当たり」を喜び、「ハズレ」を悲しんだ。自分は真理を見抜けなかったというわけだ。
そうじゃない。国語は、そういう科目ではない。国語が、言語を使うとき、既に、言語の本質から、真実を探すということは不可能となった。言語は、言葉は「嘘をつく」からです。言葉の本質は、常に、「嘘」を内在していることです。
そうです。私たちは、言葉の本質を知った上で、なんらかの実体を言語化したとしても、既に言語は言語自身を言語そのものを観察の対象として、言語の定義、意義、文法、論理から、言語が作り出した物語を紡ぎ出さなければならないのです。もはや言語は実体とはかけ離れた、言語世界の中の住人として、虚偽の物語を創り出していることでしょう。言語は、想像の世界に生きています。だから想像力のない人は、言語の世界がわからない、だから国語がわからないのです。






