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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

現代受験論(桜修館に強い塾 都立独自校に強い塾 開成高校合格・筑駒合格・渋幕合格実績 駿台模試全国1位)🟧結局反復が最強‼️

2025.11.21

🟧結局反復が最強‼️
 反復で無意識に落とし込む❗️

 受験の極意はと、問われれば、反復繰り返しと言うだろう。これは、竹の会が昭和60年10月にスタートして以来一貫して変わらぬ、竹の会の指導原理となってきた。その故郷は、遠く、わたしの大学受験の経験に遡る。わたしは、高校卒業後東京で大型貨物輸送の運転手や清掃会社のダンプを運転していた。しかし、わたしの胸の中には「中学の秀才が何をしてる❗️借りは返す‼️」とメラメラと情念みたいなものが燃え続けていた。8月に東京を畳み、神田の本屋街で参考書を買い集め、郷里の田舎に帰り、親父に頭を下げて、大学受験をすることになった。実質勉強を始めたのは、10月からと思う。九州大学の入試まで、10月から2月までの5か月のことだった。問題集なんかはやる暇がない。わたしはひたすらインプットに時間をかけた。数学は、Z会の問題&答案がセットになった、200問、英語は、原仙作の英文標準問題精講と赤尾の豆単、国語は特になし、日本史と世界史は山川の用語集、生物は、数研の薄い問題集だけ。わたしは、朝起きると、文机の左側に乗せてある、それらの参考書を一日のノルマ分ひたすら読み、右側に移していった。最初は、一日がかりだったが、一か月もすると、一日に何往復かするようになった。こうして、原の英標、豆単は50回以上回した。山川の用語集は、覚えた用語を黒のボールペンで塗り潰していった。すべてが黒になるまで何十回読んだか、覚えていない。単語は、1万語は覚えた。原の英票は、英文を見ただけで、文体から、作家の名前がわかるまでになった。現国は何故か何もしなくても点が取れたので、結局何もやらなかった。生物は、数研の問題集の例題を解いただけだった。生物は教科書が分厚くやり出したら時間がないと思い、それこそ適当に済ませた。苦手の数学は、問題を見ただけで、頭の中に、答案が流れた。多くの答案が頭の中で融合して、何か数学の真理に触れた気がした。
 落ちたら、今度は、横浜でまたトラックに乗るしかない、と覚悟していた。うちの親父は、それほど寛容な人ではなかった。もう家を出るしかないと覚悟を決めていた。
 奇跡が起きた❗️テレビに映し出された合格発表の掲示板、法学部の掲示板に、わたしの番号があった‼️ラジオでもわたしの名前が放送された。それを扇山(別府にある扇の形をした山)で聞いていた母校の先生が私の家に確認のために訪ねて来た。新聞にも「奇跡の合格」として載った。
 この時の経験、勉強法が、竹の会の原点にある。わたしの指導の原点は、すべてそこに行き着く。僅か5か月の勉強で旧帝大に合格したことは、わたしに多くの確信をもたらした。過去問は時間がないからやらなかった。問題集も時間がないからやらなかった。現国も時間がないからできなかった。一切の無駄な時間をカットし、ひたすらインプットに時間を費やした。とにかく反復した。予備校なんか一切関係なし。周囲や世の中が常識とされる一切を無視して、自分を信じた。一度だけ11月頃に受けた全県模試は番外(記憶は定かだはないが、おそらく3万人ほど中の2万7千番ほどか)だった。正直心が折れたが、まだ反復どころか1回も終わってない、と強い意志で打ち消した。正直旧帝大は聳え立つ壁に見えた。本当に打ち崩せるのか、いつも沸き起こる不安と「必ず合格する」という強い意志による打ち消しが鬩ぎ合った。
 合格は、わたしの心の中では、ようやく「けりをつけた」という安堵感だった。中学時代の秀才と言われた時代、受験という意味、勉強というものの何たるかを悟らない、幼い心のままの高校時代、それらにわたしなりの決着をつけることができた。
 竹の会の指導哲学の原点はここにあり‼️

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