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現代受験論(桜修館に強い塾 都立独自校に強い塾 開成高校合格・筑駒合格・渋幕合格実績 駿台模試全国1位)🟪自分の見た目を信じる‼️

2025.11.27

🟪自分の見た目を信じる‼️

 観察するとは❓
 観察は、見るの基本である。どこを観察するか、意識的には、そういう脳の働きを、している。つまり、一般的に観察するということはありえない。観察は、常に、具体的なものである。私たちは、人間として、最も普通の能力である、「見る」能力を疎かにして来た。人間は、自分以外の1人が、赤を黒と言えば、赤というが、自分以外の2人が黒と言えば、黒と言ってしまうことが、実験で確かめられている。そうなると、今の世の中では、自分以外の他人の見たものを、自分の見たものとするのがむしろ普通になる。王様は裸だ、と見ることができないのだ。
 他人の意見は、言葉だから、必ず嘘がある。他人の見た目は、偏見と先入観の色メガネがかけられたものである。私たちは、世の中に溢れる呪いから逃れることはできない。偏見と先入観が渦巻く世の中、テレビ、新聞が振り撒く洗脳情報、政府の欺瞞に満ちた政策、どれ一つとっても私たちに逃れられる術はない。
 私たちに、残された手段は、自然に備わった観察しかない。ひたすら自分の目で見る、何か見えるまで見る。この時、決して、他者の意見は耳にしてはならない。人間の弱さは、言葉による呪いを受けやすいからだ。他者の目、意見が取り憑いて、自分の判断が麻痺するからだ。
 勉強とは、観察である。観察は、一度見たくらいでは、何も読み取れない。自分で重要そうだと思っても、後から考えたら、本質はそこになかった、ということは、普通にある。そして、最初は、意味はないと軽く流していた動きが、実は、もっとも本質に繋がるものだ、ということがあるのだ。観察に失敗するのは、思い込みで見るからだ。様々な呪いの言葉が観察の邪魔をする。
 観察をして本質的なものを見つける、これが観察の目的だ。本質的なものの発見は、観察に際しての「問いかけ」にある。問いが発見を左右するのだ。
 観察は、算数、数学、国語などにおいて、必須の前提作業である。何事もまず観察から、である。例えば、算数は、文章を注意深く観察する。算数的事実を既存の算数枠組みに当てはめる。この時に、枠組みを図にすることが望ましい。図は、問題文を分析するのに、関係把握するのに、ベストの方法だ。図化するのは、もちろん前提に、観察がある。
 というか、図化は、観察の一つの方法と言える。対象を細かに見なければとても図などかけないからだ。算数は図とともに上達する。
 それでは、国語はどうか。
 国語ももちろん観察が前提である。読解とは、観察と言っていい。文章の文法的観察、文と文の関係の観察、抽象的言語と具体的言語の観察、抽象的言語をさらに抽象的言語で言い換える、これも観察の対象である。要するに、私たちは、あらゆるものを、観察という態度で対しなければならない。

 私たちは、自分の見た目だけを信じて、判断し、行動しなければならない。迷いは失敗・敗北の別称である。つまり、迷ったときは、負ける。一抹の不安とは、迷いが一瞬流れることである。懸念とは、迷いである。迷うのは、判断に迷うのであるから、判断が自己の能力を超えている場合である。試験がそうである。未知の、あるいはこれまで見たことのない問題に、遭遇したとき、問題解決の可否は、能力の問題なのか。その場合もある。しかし、それは、これまでの学習法に帰因しているのではないか。本来、資格試験にしても、誰にも解けない問題を出しては意味がない。一定の合格者を出す試験なのである。受験生はみな勉強しているから、それなりにできる人も多いはずである。その中から絞らなければならない。そういうときに、今までに勉強したことのない、未知の問題を出すしかないのだ。しかし、絶対解けない問題は出さない。どういう問題を出すか。
 未知の問題でも、抽象的な枠組み、大局観、鳥瞰的視点に立って、考えたら、解決が見えてくる、そういう問題を出す。要するに、大きな枠組みで掴め‼️ そういう勉強をしろ❗️ということなのだ。法律の勉強なら、そもそも不動産登記の公示制度は❓とか、刑法の名誉棄損の趣旨は❓とか、「そもそも」を勉強することだ。つまり、普段の勉強は、例えば、江戸時代の改革を勉強するとき、「そもそも何故改革するのか」と「そもそも」から考える。ノートをまとめる時も「そもそも」ノートを作ることだ。法律なら、そもそもの制度の趣旨、立法趣旨から理解する。日本史なら、まず、そもそも鎌倉時代とは、どういう時代だったのか、と問題を立てる。
 試験は、誰にも解けない問題は出さない。難問に見えても、全体が見えている、そもそもがわかっている人には、解けるように作っている。
 個々の木を見るのではなく、森全体を見よ❗️森の中の、珍しい木を探すのではなく、常に、森全体から、大まかな方向性を掴め❗️ 珍しい木だからと、さらに珍しい木を探すのではなく、抽象的、一般的な方向性を掴めばいいのだ。どうするか、判断するときの大まかな方向性だ。
 大まかな、というけれど、核のところは、正確に、暗唱するほど、覚えなければならない。核とは、定義のことだ。数学は、この定義が迷いからの脱出キィーになる。
 さて、これで、勉強方法というものが、見えてきた。
 勉強は、大まかな方向性を掴めばいいのだ。そして、核を覚える。制度趣旨といった「そもそもの趣旨」は、核の主要なものだ。
 細かいところは、適宜、適材適所で重要なものを拾う。直前の、要点集の利用は効果がある。ただし、要点集では、8割取れれば、よし。試験とは、満点を取るのが目的ではない。合格ラインより、上にあること、これが目的である。
 試験は未知との戦いである。先程も述べたように、細かい、特殊な知識ばかり追いかけてると、そういうものが出るのでは、確率から言ってほとんどないのだから、具体的なものをあれこれ覚えるのは、如何にも得策ではない。試験は、大まかな、思考の方向を学ぶことである。テクニック的には、例えば、ある化学式が、実験問題、計算問題など、多岐に連鎖するような分野は、要注意と言える。ここでも、出題のメカニズムがある。いや、出題の物語がある。そうなんだ。出題者は、ある物語を描こうとしている。わたしは、かつて、LECで、司法書士試験記述式の問題を制作していたことがあるが、あのときは、先例から事実を探していたが、今なら、物語を書く、ことで迷いがない。
 問題に対したとき、出題者がどのような物語を描いているのか、を読み取りたい。問題を観察する、何層に観察する。そして、想像力を尽くすことである。
 物語には、あらすじがある。大まかな方向性から、書かれたストーリーがある。物語は、背景にある、大まかな方向性が大切である。物語がわかれば、たとえ未知な物語でも、解答の羅針盤があるから、行く先には迷わない。そうなのだ。ここで推理・推測が、意味を持つのだ。
 こうして、問題は、物語だ。だから何の物語かを観察で推理するのど。君たちの羅針盤は、普段の勉強で、大まかな方向性を捉えることに重点を置くことで、作られる。

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