画像
中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

現代受験論(桜修館に強い塾 都立独自校に強い塾 開成高校合格・筑駒合格・渋幕合格実績 駿台模試全国1位)🟩サボリ癖は治らない‼️

2025.11.28

🟩サボリ癖は治らない‼️

 人間はできるだけ楽をする方を選ぶ動物である。
 「賢い脳は、非常に怠惰でもある。少しでも働かないでいられるよう、ミニマリズムの哲学に従うのだ」(ダマシオ)
 わたしたちは、常に、自身の怠惰心を自制心で阻止しようと心を戦わせる。しかし、人間の怠惰心は、本能的なものである。常に「楽をしたい」という本能に振り子の針が揺れる。だから、怠惰心を封じるのは、余程の何かの力がなければ難しい。IQが高ければ、知的なものの関心が力となる。一流校に入りたいという情熱は、その力となる。しかし、情熱は、障害に弱い。脆い。つまり、情熱は、挫折しやすいのだ。情熱は、冷めるのも早い。だから、情熱が力となるのは限られている。情熱が冷めると一気に怠惰に落ち込む。そこに情熱の怖さがある。情熱は、常に破滅と表裏の関係にあるのだ。
 人間は、楽をする天才である。どんな時でも、楽をする方法を考えている。効率的には、いいように見えるが、努力しないで、楽をする方法を取るようになるから、決していいものではない。怠惰な人間が楽をすることしか考えないのは怠惰ゆえにである。
 怠惰な人間は、基本的に、地道な努力、基本的生活に、耐えられないのだ。特に、真面目さが、欠落する人間は、人生に対して、真面目さを欠くから、不遜な精神を宿しやすい。
 怠惰な人間は、不真面目である。怠惰な人間には、責任観念そのものがない。だから、怠惰な人間は、過ちを犯しても、責任というものが欠落しているから、素直に謝るということができない。逆に、きちんと謝ることのできる人間というのは、責任感のある人である。
 こうして、怠惰な人間の、決定的・致命的な欠陥は、責任観念の欠落である。責任観念の欠落した人間には、反省がない。反省がない人間には、進歩がない。進歩は、反省の上に成り立つからである。
 役人には、責任という観念は制度的に消されている。そもそも官僚制度は、責任回避の制度だからである。国の認可した薬で、薬害が発生しても、個人個人の役人は、上からの命令で動いているからと責任を否定するであろう。それではトップが責任を負うのか。そんなことはない。法律に従ったまでだと責任回避するであろう。つまり、国は絶対に責任を負わない。新型コロナワクチンで2000人以上が、接種してすぐに死亡しているが、国が責任を取ったことはない。役人の責任不在は、彼らが怠惰だからというわけではない。最初から責任は取らないという体制なのだ。私たちは、責任を取らない連中に支配されているのである。
 さて、元の話しに、軌道を戻す。
怠惰な人間の話しである。怠惰な人間には、時間の観念がない。遅刻は彼らにとって当たり前である。責任感の欠如した人間には、時間は守らなければならない、という規範はない。そうなのだ。責任というのは、規範なのだ。考えてみれば、役人が責任を取らないのは、彼らに規範意識が欠如しているからだ。責任というのは、列記とした規範であり、官僚制度は、責任規範を外した、骨抜きの制度設計になっている。
 怠惰な人間の性根は決して変わらない。責任の欠落した人間は、一生責任を感じることはない。先程、責任は規範だと述べたが、規範には、様々な規範があり、例えば、人倫に反してはならない、人を殺してはならない、という規範など、後者は、刑法にまで高められているが、規範に反するということ、それはすなわち責任の違反ということであるからである。刑法は、規範違反の、うちでも、特に、重大な規範を条文化したものである。刑法の理論では、規範違反は、条文に該当することは、すなわち違法性があり、かつ責任規範に反するとされている。つまり、刑法犯罪は、須く責任規範違反なのである。ここでは、本人に責任感が欠落していようがいまいが、責任は問われる。しかし、人倫規範に違反しても、必ずしも罪となるわけではない。不倫は、刑法の犯罪ではないが、規範違反ではある。本人に責任意識が欠落していても、罪になることはない。無責任な人間がやることだが、それを罰するのは、社会的制裁の形を取るしかない。もちろん制裁されないこともある。
 世の中に、責任を取らない人間が、蔓延る。そもそも政治家が責任を取らない人種なのだから、様々なところで、責任回避、責任転嫁が、横行しても特別なことではないのかもしれない。そもそも教育がその役目を果たしていないし、家庭の教育も責任の観念はない前提である。クレーム魔の親世代は、他人の責任は追及するけれど、自分の責任観念は欠落しているのである。

ページトップへ