2026.05.23
🟦だからいつまで経ってもできるようにならないんだ‼️
中途半端に塾に通うならそうなる。部活で時間を潰してれば勉強は中途半端になる、当たり前だろ❗️ 習い事やりながら勉強❓ 勉強は習い事じゃない。人間の核となる思考を作る根幹となる、人生において必須の選択である。99%の人は
習い事では将来食っては行けない。人は勉強して食って行く道を選択する可能性を広げる。
勉強はやればやるほど奥が深い。特に、受験はそうだ。やれば新たな壁が立ちはだかる。その度に、没頭する。時間と知力を使う。IQが比較的高くても、時間はいくらあっても足りない。
何かをしながらやれるものではない。勉強を舐める理由がわからない。IQが高いほど勉強に対する関心が強く、興味も湧く、ものである。つまり、勉強に関心が湧かないのは、IQのいたずらかもしれない。
退屈さに我慢できず、幼児のように、幼稚な面白いものに惹かれるままに過ごせば、バカになる。退屈と面白いものに惹かれるのは、IQの、低いことの証となる。
「わりやすさ」の害悪‼️
わかりやすい参考書、わかりやすい塾、わかりやすい先生、やたら世間は、わかりやすさを求めるようになった。しかし、わかりやすいものは、端的に言って、嘘である。わかりやすさを求めるのは、自分で苦しんで考えることをしなくなったことの裏返しとも言える。わかりやすい説明というのは、あなたは考えなくてもいいんですよ、と言っているようなもので、思考を奪うことである。大手塾では、集団授業で「教える」ことが普通は取られる。学校と同じ。塾の方が、熱心に教えるかも。学校は、授業をいろいろ工夫するが、塾は、大学生講師が多く、問題の解き方を教えることが授業となる。思考を摘むという意味では、塾の方がやばい。
学問というのは、「考える」過程こそが、学問であり、決して解き方を可視化して覚えることが学問な訳ではない。
昨今は、要点をまとめた、文章を省略した、要約をいきなり与えて、理解させ、覚えさせる。これは、過程をカットするわけで、子どもは、要約された結果だけを覚える。これは、資格試験の世界では、要約、要点整理が当たり前になっていて、今の制度では、ろくな弁護士は生まれない。何もかもがみな誰かがやってくれるところでは、考えるという過程がスキップされ、出来上がるのは、AIみたいな人間ばかりとなる。喜怒哀楽という実体のない、言葉だけの喜怒哀楽人間ばかりが、跋扈するようになる。石丸とか、ホリエモンとか、昨今のAI政治家とか、途中過程を軽視し、結果、要約しか見ない、実体のない、AI感情しか持たない人間が、AIで毒された若者たちにもはやされて、担がれる。AI感情とは、例えば、「悲しい」という感情の言葉の意味はわかるが、自分が、そういう感情を体験することはない、という意味合いである。
世の中に、要約人間が、我を主張し始める。SNSには、ワンフレーズしか理解できない、まさに頭の悪い人間が、要約人間のワンフレーズに歓喜する。
自分で、途中過程を体験することが、無益とされる、現代の風潮は、誠に憂うべきことである。竹の会は、思考、つまり、途中過程を何よりも大切に思って来たのだから、昨今の、輩の傍若無人がどうにも我慢ならない。途中経過は無視、要約と結果のみ欲しがる、昨今の若者たち。
🟦自民党は政党ではない。利権を貪る徒党だ。こういうのに、政権を委託する、人間たちが、日本を壊滅させるのは、近い。利権優先の集団が、まともな政治なんかやれるはずがないだろ❗️
z世代❓ 要約を欲しがる。途中過程は、時間がかかる、だから面倒くさい。面倒くさいのは嫌だ。それがz世代だ。自分で考えるのは面倒くさい。他人が、要点をわかりやすく伝えてくれればいい。本なんて読まない。要約、ワンフレーズだけの頭、それってやばくないですか。昨今は、親世代がそれだから、子どもは推して知るべし。
そんな姿勢だから、大手塾に行ってもうまくいかないのだ。昨今の塾は、要約、わかりやすい説明を売りにする。大手進学塾の教材を見ていると、要約文化が顕著だ。子どもたちは、考えるよりも、如何にして、要約を手に入れるか、ばかりを考えている。自分で考えることさえも、面倒くさい、と忌避されてしまう。
竹の会は、途中過程を重視して来た。大手塾に集まった、面倒くさいを悪習とした子どもたちに、要約した知識を提供して、商売をする、それが昨今の塾産業であろう。
考える過程にこだわり続けたことが、竹の会の多くの合格者が、合格後、トップ層にあり、東大、京大、一橋大、東工大、東北大などの合格に結実したのだろう、竹の会はこれでよかった、のだ、とよく思う。40年の竹の会の歴史は、私の指導法に悩む、苦しみの歴史であった。初めての授業、塾とは、細切れに授業をするものだと疑うこともなかった。授業で熱心に教えれば教えるほど、子どもたちの成績は悪かった。なぜ?悩む日々。ある時、わたしが体調を崩しほとんど教えられなかったことがあった。子どもたちの成績は下がるだろうと観念したものだ。ところが、みなが、高得点を報告してくるではないか。ある時から授業はやめた。教えないで、考えさせた。とことん考えさせる。その間に、手書きの解答プリントを作った。頃合いを、見て、それを見せた。子どもたちの目の輝きが違った。わたしは、いつもどうしたら子どもたちが、できるようになるか、考えた。教材に何を使うか。市販の問題集からコピーして使ったり、「新中学問題集」を使ったり、と試行錯誤を繰り返した。過去問は、コピーして使った。河合塾、代ゼミなとのテキストに、これはかなわない、と思ったものだ。
平成10年ワープロ専用機時代、その後パソコンが普及した。わたしが、今の、数学ソフトに出会ったのは、平成13年頃か。そのソフトを使いこなしたのは、平成17年のこと。大手に負けない、竹の会独自の教材が作れるようになるまで、歳月が流れた。平成20年まず高校入試のレジュメ指導が完成した。レジュメ指導が、竹の会の考える主体を育てるという理想を実現させた。わたしは、レジュメ指導を独自に体系化して行った。この頃になると、わたしは自分の、イメージ通りの教材をパソコンを自在に操り、作ることができるようになった。こうしたい、ああしたい、イメージができると、すぐイメージをレジュメにした。
レジュメ指導は、子どもが、考えることを当たり前のように、馴化させて行った。考えないでいることが、不自然なくらいに、竹の会では、子どもたちは、考えようとした。しかし、わからないままに時間と日にちが経つことにわたしの方が苛立った。指導室に呼ぶ。とっかかりも見つからない。全くわからない。IQの壁だ。やむなくだ。問題を飛ばす。源流に遡ってそこから説明することもある。レジュメを一段階下げることもある。IQの壁と戦うイメージかな。スイスイと段階を進める子もいる。いや昔はそういうIQの高いが多かったように思う。問題は途中過程にあるのに、親が教えて本人がやって来たと出す。その能力を知っているから解けるはずはないのに。誰かに聞いたとすぐわかるウソ。それで済むと考えるところがIQの限界なのに。IQのない子の指導はいつもそんな駆け引きばかり。子どもたちも悩んでいる。できない、わからないのを悩んでいる。指導なんて、とにかく生やさしいもんじゃない。指導なんて毎日が予期せぬ事態との格闘なんだから。






