画像
中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立40年

現代受験論(桜修館に強い塾 都立独自校に強い塾 開成高校合格・筑駒合格・渋幕合格実績 駿台模試全国第1位)🟨子どもは、任せたら、何もやらない、やっても、無意味なことしかしない、要するに、無駄‼️

2026.08.07

🟨子どもは、任せたら、何もやらない、やっても、無意味なことしかしない、要するに、無駄‼️

 子どもに、任せるやり方は、何もやらないのと同じ。まして丸投げする塾は、無責任の極みだ。サピックスでは、親がつきっきりで「教える」ことを半ば強制すると聞いている。子どもの主体性というが、受験に関しては、主体性があったからと言って、理解が進むわけではない。サピックスは、子どもひとりでは、真の意味での勉強はできないということを前提している。つまり、子どもに任せていては、先が見えている、ということが、わかっている。
 よく大手塾などで、自習室を開放するやり方が、メリットとして、宣伝されてるのを見るが、たとえ自習室に講師が監視と指導を兼ねて置かれているとしても、子どもたちが自主的にする質問にはほとんど意味がないし,自習室で時間を潰す意味しかない。そもそも「わからないところを質問する」というやり方が意味がないのだ。わからないのは、基本的な仕組みがわかってないからで、前提となる理解がない、ことが、ほとんどで、必要なのは、基本のやり直しなのだ。子どもたちに、わからないところを教える型のやり方は、根本から破綻している。子どもがひとりでやる勉強にいったいどんな意味があるというのか。
 子どもは、自ら前へ進めるということは期待できないものなのだ。極端に言えば、手取り足取り状態なのが、子どもの本質であり,また実態だ。また自ら「わからない」ところなどと言うのは、前提として、きちんと理解しているからこそ出てくることなのだ。しかし、子どもがわからないところというのは、実際は、たくさんある「わからないところ」のほんの一つに過ぎない。それがわかったからと言ってすべて解決というわけでない。つまり、子どもというのは、わからない塊なのだ。
 わたしは、子どもが、わかったと言っても信用したことがない。わかったかどうかは、検査するしかないのだ。竹の会の場合、わたしの説明が理解できないとしたら、それは、段階的な積み重ねのどこかの段階が欠落しているからである。これは多くは、他塾から来た子に見られる。説明というのは、それまでの積み重ねを踏まえて、この子は、ここまで理解している、こういう説明は通るかも、といった、常に限界を意識した試みなのである。竹の会では、ミクロマクロという理解の枠組みを子どもたちの脳に組み込むことから始める。この思考様式がきちんと組み込まれた子なら、全体を1とおいて、などという説明もすんなりうけいれられる。ところが、大手塾で公式中心の解き方を覚えるやり方を2年も3年もやって、すっかり洗脳された子には、1とおくからはじめた説明は、ちんぷんかんぷんということだ。竹の会の子どもたちは、既に頭に形成された思考様式で、「考える」という人間本来の対応が取れるようになっている。大手の子は、解き方、公式を思い出そうとする。そこには、いわゆる思考というものはない。
 竹の会は、徹底して、子どもを信用していない前提で、指導をする。子どもの「わかった」という言葉は、そのまま鵜呑みにできない。だから、理解を調べる。竹の会のレジュメは、理解度検査として機能する。基本を本当に理解しているなら、この問題は解ける、というのがある。これは、検査専用の問題である。レジュメには、この種の問題があちこちに忍びこませてある。だからわたしはいつでも子どもたちの隠し覆えぬ欠落部分を炙り出すことができる。常に、子どもたちの赤裸々な力を把握している。だからわたしの処方する指導は的を射たものになるのだ。
 大手の講師が、子どもたちの実力を数値でしか評価できないのは、あまりにも雑である。そもそも画一的な、問題集で力を測るから、個人個人のほんとうの力はわからないのだ。秀才も、鈍才も、皆同じ問題で評価される。画一的問題で、同じ50点をとったとしても、それは決して同じ力ではない。集団単位で測るから、いつまで経っても、わからないところはわからないままなのだ。
 個人単位で、測るしかないのだ。そして、指導なしにやらせる勉強は、やらないに等しいのだ。子どもというのは、指導して初めて力をつけるのだ。ここでも、画一的な問題集を使うのはアウトである。画一的問題集を使うのは、集団指導に等しい効果になる恐れがある。わからないという子には、一問一問が、検査になる。その結果を、診て次の対応を図る。一問の結果を診て、戻るか、進めるか、判断していく。つまり、きめ細かな検査指導が必要な段階なのだ。小学生のほとんどは、できない子である。だから、子どもに丸投げ、任せることはできないのだ。自分でやる勉強では、新しいことは学べない。指導とは、検査と演習の繰り返しである。子どもはひたすら演習を通してのみ理解を得られる。ひとりの子を見つめるからこそ伸ばせるのである。竹の会に来て,わたしの指導を受けて,親が驚くのは無理もない。世間の塾があまりにもいい加減だからである。それがわかるときはすでに遅く,人生の結果は出ている。お疲れ様としか言いようがない。

ページトップへ