2026.09.01
🟩抽象という脳の技術‼️
人は、意識しなくても自然と抽象化している。よくシンプルがいい、とかいうことが、言われるが、これも、なにを言わんや、抽象化にほかならない。
なぜ多かれ少なかれ抽象化が必要なのか。
種々雑多な、個々の情報を具体的なままに、そのままに、生のままに、脳に入れることは、不可能だからである。脳は、情報を、抽象して入力したもののみを受け入れることができる。わたしたちは、知識を抽象して、つまり、不要な妨害を捨象して、脳に入れることを普通にやっている。この抽象の能力はIQに関わる。IQの高い者は、物事を鳥瞰し、俯瞰し、何が本質か、本質でないか、を判断し、贅肉を捨象し、まさに、シンプル化して、スリム化して、脳に仕舞い込む。
清水幾太郎
科学上の法則の実現を阻む様々な具体的事情がある。学問の世界においてはこういう妨害をする具体的な事情がすべて切り捨てられて捨象されているのであって、そのために法則が純粋な形態で現れて来るのである。こうした世界を現実の中から取り出して来ることは一般的に抽象と名づけられている。学問も芸術も総じて人間の営みはこのような抽象を含まねば行われ得ないのである。これを行わずに現実をその全体においてとらえるということは凡そ人間の能力を超えた大業と考えられる。しかし、抽象という働きがあるために芸術なり学問なりは現実の生命の尠くとも一端に触れることができ、これを純粋に表現することができるのである。
思考の節約‼️
思考力とは、要素となるもののみを思考の基礎として、思考の節約を図る、その意味で、工夫である。つまり、思考とは、思考の節約をコンセプトとした、工夫のことである。
工夫はなにから学ぶか。いやなんでも可能であるが、竹の会では、算数及び数学を通して、学ぶ。算数は、まさに工夫の科目であり、算数を学ぶ意味は実はここにしかない。工夫して解く、しかも数式を使わないで。これは工夫學の最たるものである。 数学ももちろん工夫の科目であるが、高校入試の数学と大学入試の数学では、その工夫も自ずと異なるであろう。高校入試の数学は、限られた範囲における、工夫が試される。大学入試の数学のように、広い範囲で、工夫の先にある構成、仮説(定義)を前提としての推論が、問われるのとは、質的に異なる。
人間は、同時に二つ以上のことは考えられない。複雑なことを考えるのは、同時に二つ以上のことを考えるのに等しい。如何にシンプルに考えるか、そのために抽象するか、これが、思考するための、準備、仕込み、ということだ。まず、抽象してから、思考する。
してみると、私たちは、如何に抽象するか、が,学問の眼目であることを悟るべきことになる。竹の会の指導がさらに抽象という知性を顕わにすることはもちろんである。






