2026.09.28
🟩自転車の乗り方は、渡らない‼️
どんなに説明を尽くしても、自転車の乗り方は実際に乗って見て失敗を繰り返して自分で体得するしかない‼️
渡せるものはすべてではない。例えば、わたしの数学レジュメは、問題と解説、それぞれがレジュメとなっている。そう、わたしが選択した問題とその詳細かつ簡潔なヴィジュアルな解説レジュメは渡せるけど、その前の、問題レジュメに向かう思考の有り様、工夫の実際は、渡せない。
ひたすら読み、意味の理解に努め、わからなければあれこれ悩み、また読み返し、ひたすら考える、こういう姿勢は、伝えられない。どんなにいい教材を渡しても、そういうものは渡せない。
渡せないものは、渡せなかったら、どうなるの❓
その子のこれまでの勉強姿勢、生活歴史、家庭環境、IQ、親の職業、学歴、勉強観、あらゆるものが、それからの姿勢に現れる。渡せなかったものが、しっかりと根付いている、そういう子だけが、しっかりと自分の道を見つけることができる。
そういう姿勢というものは、本来、渡せるものではない。
わたしの経験では、渡せないものが、すでに備わっている子がいるのである。何も言わないのに、最初から、真摯に悩み、工夫し、努力する子というのがいるのだ。そういう生活姿勢は、誰から教わったというものではない。最初から備わっている。
そうなると渡せないのは、もともと渡すものではなかったからだ。各々個人が醸成するものなのだ。子どものもともと受け継がれれるIQの力、いやその他の遺伝的因子の影響も、大きい。
好き嫌いを露わにする子、感情の抑揚が激しい子、集中そのものが無理な子、そもそも言葉が伝わらない子、反応の薄い子、みなそういうものを持ち合わせていない。備わっていない子にそもそも指導は出来ない相談なのだ。
わたしは、自転車はどう乗るか、は伝える。つまり、考える、工夫するとはどういうことか、どう思考を巡らすのか、その様をを伝えることはできる。しかし、これは、もともと渡らないものだ。自転車に乗れるかは、バランスの取り方、倒れる方向へタイヤを動かしたり、体の軸をずらしたり、ハンドルを操作したり、そういう微妙なものは、伝えられない、渡らない。思考の巡らしかたは伝えられないのだ。
自ら苦心して、学びとるものである。
多くの親は、そこがわからない。というか、教え方、わかりやすい教え方、そんなことばかり言っている。もともと伝えられないものを、わかりやすく教えろ、と言っているのか。子どもが、自らの責任で取り組まなければならないものまで、教師、塾に丸投げする親ばかりだ。
そこは親の責任でしょ。甘やかし、過保護で、子どものわがままをたしなめることもしない、子どもの先回りして、厄介なことを取り除く、子どもに考えさせる機会さえも与えない、そういう育て方をして来た子どもが、面倒くさいと考えていることをやらないで済ませて来た親が、塾になんとかしろ、と言っているのだ。
大手塾の、バカな親に迎合する商売姿勢が親を助長させて来た。そういう塾が、子をバカなままに塩漬けにして、不良品として、区立中に流通させてきた。
思考するということを知らない子どもが大量に区立中に溢れる。計算もまともにできないない。簡単な文書題になす術を知らない。そういうバカな子で溢れるのが、公立中学だ。ここでも、大手は、商売をする。バカな親がまたバカな子を待ってましたの大手塾に丸投げする。だから区立中は少しまともな子なら上位2割に入るのだ。
思考力というのは、小学低学年から訓練して、3年かけて作り上げるものである。つまり、自転車に乗れるようになる。自ら操作して走行できるようになる。これが主体性の獲得である。まず思考というものを子に武器として持たせるのだ。話しはそれからだ。算数は、そのための素晴らしい手段である。子どもが思考を獲得する、つまり、工夫して解決する、そういう知恵を学ぶ、最高の手段である。
この機会を放棄して、大手で知識を詰め込む、それで子どもの脳を破壊する!そういう親ばかりだ。ご愁傷様というほかない。






