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《渋谷で創立40年》都立中・都立高の受験対策

現代受験論(桜修館に強い塾 都立独自校に強い塾 開成高校合格・筑駒合格・渋幕合格実績 駿台模試全国第1位)🟥全部を完全にやる❓ 違う❗️

2026.10.10

🟥全部を完全にやる❓ 違う❗️
 株の世界では、その分析手法に、ファンダメンタルとテクニカルというものがある。司法試験や司法書士試験を例に取れば、勉強法として、やはり、ファンダメンタル的なものと、テクニカル的な面がある。ここでのテーマは、勉強は、いや受験勉強は、後者に絞るのが、得策ということである。
 例えば、民法学を学ぶとする。このとき、大学では、テキストが、指定されることがある。わたしの大学では、どうであったか記憶にない。もしかしたら口頭であったかもしれないが、忘れた。というのは、当時は、民法なら誰ともう決まっていたからだ。例えば、ダットサン、松坂提要、民法講義が定番だった。しかし、民法講義は、全十巻前後もある大著であり、凡そ人間の限界を超えた本である。これを何度と読み込んだなどという猛者がいたのである。星飛雄馬の時代の根性路線そのままのありようであった。ダットサン民法は概説の名著とされた。こうした体系書を読むアプローチがファンダメンタルということになる。受験においては、ファンダメンタル的な攻め方は失敗に繋がる、というのがいまのわたしの見解である。予備校は、このファンダメンタルの領域を簡略化しようとした。予備校の教材を求めて,大半の受験生が予備校に群がった。あの天才受験生山口真由も予備校を利用している。受験の天才がその後の人生で輝かしい成功をするわけではないことは、天才受験生のその後を知ればわかる。
 私見は、ファンダメンタルな部分は、簡単に済ますこと、できれば薄い概説書1冊で済ますことである。その場合、概説書の名著を読むことが大切である。そもそも概説書というのは、その道の大家にして初めて書けるものである。概説書を読むメリットは、大観が得られること、時間の節約になること、である。
 受験勉強の80%は、テクニカルに置くべきである。これは、大学受験、難関資格試験において、もっとも妥当するであろう。高校受験は、別に、考えなければならない。それは、高校入試は、知識のインプットは、それだけで80%をカバーできるほどに比重が大きいからだ。ファンダメンタルな面の比重が大きい。テクニカルな科目は、数学だけかもしれない。もちろん英語は、試験問題に慣れること、時間制限に慣れること、はある。理科、社会は、インプット型の勉強だけで、取れるのがわかっている。問題集は原則いらない。国語にしても、例えば、わたしの「国語ポイント集」は、インプットで高得点を取ることをコンセプトにしたものだ。こうして、高校入試では、数学を除いて、インプット型の勉強を勧めることになる。
 V模擬で、理科、社会が悪いというときの対処法
 竹の会では、このケースには何度も対応して成功させて来たけれど、やはり、中2までに終わらせておくことが、一番だ。つまり、そういう問題を作らないということだ。

 究極の勉強の方法について、今、私が、こうするだろ、と決めていることがある。
 今なら、ファンダメンタル2、テクニカル8の割合でやる。
 ファンダメンタルは、必然「概説」レベルで済ます。鳥瞰図を手に入れる、それでいい。
 テクニカルに、全力を尽くす。難関試験ほど、それが効果的だと知っているからである。
 私の大学入試では、ファンダメンタル100%で臨んだ。いや数学は問題集、解説付きのもの、だからやはりファンダメンタルと思う。問題集をやらなかった分、不安は極限にまで達した。だからそれを打ち消すように、繰り返した。ひたすら繰り返した。それは不安との戦いであった。問題集というのは,理解を「試す」ためにやるのだからテクニカルなものである。しかし,わたしはファンダメタルな使用をして来た。解説とセットで読み込むやり方だ。これはテクニカルな面の強い方法だと思う。
 難関試験では、ファンダメンタルの量が半端ではない。これをまともにやれば、確実にタイムアウトになる。今なら、テクニカルに全力をかけるであろう。問題集は、過去問に限る。これならタイムアウトにならなくて回せる。
 竹の会から、慶應大学合格者は、かなり出ている。早稲田大学となると慶應の何倍かいると思う。記憶に残るのは、平成14年の慶應大学総合政策の合格である。中学から見て来た子である。青山学院高等部の3年間も指導した。社会は、浪人に勝てないと、数学での受験を勧めた。これが見事に的中し、合格。他に数学で受けた上智大学経済にも合格した。数学は、参考書1冊を繰り返しやらせた。わたしが大学を受験したときと同じやり方だ。このやり方は、詳しい解説付きの問題集をやる点においては、テクニカルだが、実質は、ファンダメンタルであった。竹の会では、この繰り返しやるやり方は、受験では定番の方法とされてきた。
 だから、今、わたしが、主張している、テクニカルな方法は、コペルニクス的転回と言える。わたしが、主張しているのは、難関試験の話しである。東大受験ならどうか。やはり、教科書はさらりと終わらせることであろう。わたしなら、テクニカルな方法を取ると思う。
 どうやるの❓
 問題集を軸として、まとめる。1冊に全て知識を集約する。書き込み、足し紙、挟み紙、とにかく1冊に集約する。これは、1冊を何十回も読むための収斂的な勉強である。
 今は、予備校がよく整理された印刷物を提供する時代である。これで受かったという生徒がその普及を煽る。しかし、そういうものに惑わされてはならない。特に難関ほど、自分の工夫がものを言う。この時代、猫も杓子も予備校へ行く、予備校へ行かなければ受からないという風潮がそこかしこに蔓延る。予備校の印刷物が、優れていることは確かだからそれも間違いではない。ただ同じものを使って落ちる人と受かる人がいる。もちろん能力の差もあるかもしれない。しかし、わたしの考えは違う。工夫の差だ。
 工夫を培う、竹の会の指導は、小4前後からいた子たちの中から、開花することが多い。算数を工夫して解く、ひたすらこの訓練をする指導が、効果を表すのは、かなり先のことだ。なかなか効果の現れないと1、2か月で、やめた親子もたまにいる。1か月で頭角を表す質のいい頭の子もいる。伸びないのは、普通は内申と比例している。自分の子の内申がよくないのに、何を期待しているのか、塾に行けばたちまちできるようになると信じて疑わない親が多い。学校の授業レベルで成績が取れない時点で自分の子の能力がどんなものかわかろうというものだが。そういう親に限って我慢が効かない。自分の子の能力を冷静に判断している親ほど忍耐して待つようだ。公立小の8割は、境界知能だと考えるのがわたしの説だ。これは実体験が基礎になっている。そういう子を何も考えずに大手に放り込む親ばかりだ。なんという破滅行為なのかとよく思う。子どもに教えるのは、知識ではない。工夫だ。子どもたちに必要な教育は工夫を教えることだ。境界知能に近い子は、口で言ってもだめだ。手を動かすのだ。だから計算をやるのだ。頭の中の境界を崩して行く、強固な境界を壊して行く、それには時間がかかるということだ。
 もし才能に恵まれていたら、大手でいいのか。進学塾に行くのは間違いではない。ただ、才能があっても大手に潰される子がいる。やり方を変えれば、頭角を現す子がいる。日能研で潰された子が、中1から竹の会で学び早稲田実業に合格したことがある。竹の会で伸び伸びと力を開花させて行った。開成に合格した子も小4からの子だった。この子もまず大手では無理な子だったと思う。自分の心を言葉に表現できない子というのがいるのだ。あるいは知能の高い子ばかりが集まった大手の上位クラスで成績が頭打ちになり劣等感に悩む子もいるのだ。そういう子を大手の枷から解放してやり、伸び伸びと指導していく、周りにできる奴がいない環境で、精神を自由の水で洗い流す、その結果が、早稲田であり、慶應であり、東京大学なのだ。
 竹の会は、いろんな意味で悩める子が、なんの枷もなく、自分だけが考える主体だと気づくまで、延々とルーティン化されたことを繰り返すだけだ。最初は、計算ばかり、マスターしたら、割合の世界へと恐る恐る入って行く。この世界を自力で出るには、工夫と知恵がなければできない。だから途中放棄の親子も多い。子の成績が変わらないと早々に去って行く親子だ。境界児が2年経ち、割合の世界の入り口付近でウロウロしていたのに、自力で少し前へ進んだ。いやそれだけでもこれは進歩なのだ。自分で進めたことが大変なことなのだ。まだ出口までの道は遠い。でもとにかく前へ進み始めたのだから。そのことの意味がわかるのは、わたしだけなのかもしれない。いや、しかし、当の本人がニコニコしているのは、本人にも喜びなのだろう。力がつくというのは、こういう喜びを重ねて行くことなのだ。
 こういう小学生を一人前にするのは、恐ろしく時間のかかることなのだ。だからわたしは早期の入会を勧めて来た。しかし、我慢の効かない親子には、それも虚しい話しだ。昨今の親は、すぐ目先の結果が出ないと止める、永遠に彷徨う親子が蔓延しているのが今時代だと思う。

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