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《渋谷で創立40年》都立中・都立高の受験対策

現代受験論(桜修館に強い塾 都立独自校に強い塾 開成高校合格・筑駒合格・渋幕合格実績 駿台模試全国第1位)🟩解説ばかり聞いて来た人間は、自分で苦しんで考えた経験がないから、リアルな現場で何も判断できない‼️

2026.10.12

🟩🟩解説ばかり聞いて来た人間は、自分で苦しんで考えた経験がないから、リアルな現場で何も判断できない‼️
   
 大手塾の授業を聞くだけでは、何も変わらない。親は、「あの先生は、説明が上手い」とか、「あの先生とうちの子は相性がいい」とか、バカなことを言って喜んでいる。大手の講師は学校の先生とは違う。子どもや親に阿ることが仕事である。子どもや親の機嫌を損ねないように気を遣ってくれるのが大手の講師だ。それを「うちの子と相性がいい」先生という親が笑える。
 何かをやろうとするとき、他人の解説ばかり聞いて、自分で考える、自分でやってみる、ということを一切やらない人間は何もできない。これは紛れもない経験値である。
 だからわたしは、初めから説明はしない。レジュメを課してまず考えさせる。
 と言っても、竹の会のレジュメは、段階があるから、定義的なレジュメからである。面接に来た母親が、竹の会の初級レジュメを見て「うちの子には無理だわ」と言ったけど、いやいやこのレジュメに行けるまで、1年かかる子もいる(早い子もいる)。初めからやれるわけがない。この時点でこの母親のIQがわかってしまう。そもそも公立小の子の8割は、境界知能かその近辺の子であり、そのことは、内申を見ればわかる。そもそも学校程度の低レベルの授業水準のところで、「よくできる」が8割以上取れない時点で、IQを疑うべきなのである。このような公立小の実体をふまえて、大手塾が、一握りのIQの高い、天才を集めて、経営を維持していることは自明のことである。天才たちは、大手塾の広告塔として、公立小の主観的にできると勘違いした親たに便乗して、大勢の子たちを集めることになる。学校の内申の「よくできる」か8割以上あっても、全く信用ならない。わたしの経験では、その中に偽物がかなり混じっている。実は、内申は決定的な指標にはならない。しかし、少なくとも内申がいいということは、内申が悪い子との選別には意味がある。ただ隠れた天才は内申では、わからない。しかし、内申にその片鱗があることもわたしは知っている。内面を言葉で表すことが致命的に苦手な、天才がいることをわたしは長い経験から知っている。だから、内申はわたしにその子の真実を探る,重要な手がかりとなる。
 子どもの初期教育の重要性❗️
 最初から「教える」のは、子どもから思考を奪う愚行の始まりである。まず実行させるのだ。まず自分で考えることをさせるのだ。説明を聞く、解説を聞いて「わかる」という生活習慣だけはつけてはならない。人間というのは、楽をすることを快適なこと、心地よいこととする致命的な性質がある。この性質は、内面に「怠ける」ということを植え付けてしまう、恐ろしいものである。人間の生存本能は、楽をする、快楽によって、削がれる、殺がれることは、自明である。子どもから生存本能を奪うことになるのが、子どもに楽を教えることである。他人からの説明を聞くだけなら、こんな楽なことはない。しかし、いつかは、独り立ちしなければならないのが、子どもである。過保護、甘やかししか知らない親が、わがままな子を作り上げる。ペットの小型犬が、餌を求めて、飼い主に吠えかかる、くってかかる、噛み付く動画を見た。トレーナーが、甘やかし過ぎだ、言いなり餌を与えてはならない、と注意している。昨今の親は、躾けをしない。自分が躾されて来なかったのだから、当然と言えば当然ではあるが。甘やかしは、子を破滅させる行為だと悟らない親が、学校を破壊しているのかもしれない。甘やかす親は、躾けの何たるかを無知故に悟らないから、自分の子に他人が躾けがましいことをすると、途端にキレて、モンスターと化す。
 子どもは躾けてなんぼである。躾けのない子どもは、そもそも教えの対象にはならない。
 なぜなら、小学初期の「教え」とは、ほかならない躾け、学問の躾けだからである。躾けとは、わがままを許さないという命令である。規律ある命令である。計算の初歩の学びは、ルールを体感で理解することである。ここで普段の躾けが出る。楽をしたい、計算なんて苦痛だ、ルールなんて嫌だ、これは全て親の為したことである。我慢する、辛抱する、これが躾けの本質である。子どもにまず学ばせるのは、我慢と忍耐である。子どもに快適さばかりを与えて来れば、子どもは、逆境を知らない、逆境に簡単に潰される、社会では介護なしには生きては行けない、困った生物と化す。
 自分の子がIQが足りないのなら、事実を認めて、もっともいい対応を取るしかない。子の能力を直視しないで、それどころか期待能力を前提に、中学受験という圧迫の中に置くことは罪深いことである。そうやって受かっても、心は壊され、立ち直れない子が敗者として、密かに消えていく。
 心の扱いは、少なくともこうあるべきだとストレスをかけるのではだめだ。「律する」心を育てるのは、「律」の字の如く、規則正しい生活習慣の中で、律のリズムを体幹に植え付けていくしかない。計算の「律」を覚え、割合の「律」を時間をかけて、脳に刻みつけていく。「律」を基本に、工夫することによる解決を学んでいく。自分がやったんだ、という喜びの感覚が、脳に刻みを、入れるだろう。知恵を働かせることに喜びを感じ、もっと知恵を増やしたい、そういう気持ちが、学問への興味を駆り立てる。思考力をつけていく。算数という科目は、知恵を働かせる、工夫をする、という訓練には、誠に適している。算数で身につけた工夫する力、知恵の働かせ方は、将来の、財産となるであろう。その答え合わせは、近い将来必ずやってくる。

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