2026.10.23
🟩受験は自己責任‼️
落ちたら(塾は)どう責任を、取るのか、という人がいましたが、これは、株が下がったら東証はどう責任を、取るのか、と言うのと同じくらい粗い頭です。勉強というのはは、投資であり、塾は、情報、授業を提供して、受験に成功することを手助けしているだけです。合格が100%ではないからカネを投資してみな塾を利用するのです。この点は株式投資と全く同じです。様々な投資講座を利用して、投資しても、失敗したからと講座の責任を問うというのと同じです。100%の成功率どころか、数%という成功率が前提で、塾を利用するのです。落ちたら塾の責任という、天然バカは、いますけど。
みな合格する確率を高めるために、塾を「利用」するのです。株式投資が、自己責任なのとなんら変わらない。100%合格できる責任などというものは、存在しない。責任というのは、100%注意を怠らなければ決して生じないのに、注意を怠ったから発生する。つまり、注意を払えば不合格は生じなかった責任である。注意を払えば合格できる塾なんてこの世にはない。頭も悪い、勉強もいい加減な子でも注意を払えば合格できる、という論理はない。頭が良くても落ちるとのが試験でしょ。頭がいい者どうしの争いなのだから。
だから大手塾を選ぶのも自己責任です。大手に通っていて、落ちたら、塾の責任を問うなんて聞いたことがない。みなそんなことはわかっている。
わたしの言っているのは、境界知能周辺児が、大手に通うことは、失うものが大き過ぎると言っているのです。そういう層の子は、基本的な学力をつけること、いやもっと思考力をつけることが前提かつ重要と言っているのです。その前提を抜きにして、受験のための勉強をすることが、唯一の基本修得の機会を逸すると言っているのです。
世の中の親は、そのことの意味、重大性が、まったくわかっていないことを警告しているのです。自分の子が、小6の秋になって、どれほどの力なのか、まるでわかっていないことが重大だと言っているのです。
大手進学塾、大手都立対策塾、どちらでもいい。その中の多くの子が、特に、都立対策塾は深刻だと思うのですが、基本力が、ゼロに近い子が、どれほどいるか、ということです。竹の会で検査すればすぐわかります。計算ができない、割合がわからない、だから思考力ができていない、そういう子ばかりでした。そういう子が、受験をするわけです。あほかいな。
すべてが、初動の選択の誤りです。自分の子を買い被りし過ぎて、能力がある前提、いや塾に入ればなんとかなる、そんな程度です。
まず基本でしょ。イロハのイでしょ。ほとんどの子は、一部の天才の踏み台として、その働きを、終えるだけです。女王蜂のために死ぬ役目の働き蜂みたいなものです。引き立て役です。天才の優越感を満たして、自分たちが最低だという諦念を植え付けられる、そのためだけの存在です。無知な親の勘違いから始まった誤選択の連鎖が始まります。ついて行けないから個人指導、家庭教師と間違った選択が子どもたちが思考を取り戻す機会を奪います。思考というのは、小2からゆっくりとしたリズムで、生活リズムと思考リズムを同調させて行くのが、ベストです。無垢な、具体的な物語に満ちた、童話世界の子どもの脳に抽象的なものを馴化させて行く、いわば抽象物語の世界に作り変えて行く、難関工事です。素材から入れ替えて行く、つまり、具体語を取っ払って、抽象語にヴァージョン・アップして行く。これはなかなかの難工事です。
わたしは、現実には、小6の多くが、基本力が、限りなくゼロに近いということに確信を持っています。そういう子たちが、公立の中学全体の8割はいる、ことは間違いない、と見ています。大手塾であろうが、個人塾であろうが、中規模塾であろうが、公立中学に入れば、その8割は最初から落ちこぼれです。そして、都立独自校、難関私立に入れるのは、2〜3%です。
生き残れるのは、小学期に、基本をマスターした子だけです。難関中学の計算4題を5分以内に正解できるか、芝中程度の割合問題を苦もなく解けるか、国語の教養ができているか、です。
大手塾に行っていたからといって、基本ができているとは限らない。都立対策大手のなら、基本ゼロばかりの可能性が強い。早稲アカ、サピでも落ちこぼれはたくさんいるから、基本があるとは限らない。要するに、区立中学は、受検・受験失敗者、無塾の者などが混交する坩堝です。こういう混沌から抜け出すのは、もちろんもともとのIQの比重は大きいとしても、決定的なのは、基本学力の有無である、と思います。
基本学力とは、高度の計算能力、深い割合思考、つまり、思考力の有無、基本的勉強習慣の有無、それまでに培われて来た忍耐力、耐える力です。
塾に行っていたとしても、そのほとんどは、いわゆる基本力はないと推測しています。「教えられて来た者」には、いわゆる基本力はない。思考して来なかった者には、思考はない。塾で、知識を覚える、という勉強をして来ただけの者には、覚えたことを想い出すことしかできない。しかし、知識は「忘れる」ことを本質とする。覚えるだけの勉強、だから想い出すという脳の働かせ方しかしない、そういう脳の習慣化がもたらす結果がどんなものか。覚えたことだけというのは、限界がある。しかも、時間の経過とともに忘れる。つまり、知識は減っていくのである。
これに対して,思考は、無限に広がる。思考の力は、相剰的に広がる。知識でさえも、抽象化して、つまり、分類して、総合することで、効率よく、脳に仕舞える。なによりも、工夫するという脳のドライブが、機能するようになると、脳は、心地よい達成感に満たされ、考えることが、喜びとなる。考えることが楽しくなる。解決する喜びが、脳のはたらきを深化させる。勉強することが、IQを掘り起こしていく。つまり,勉強すればするほどIQは高くなる。
知識を教えるのは、思考を疎外することである。頭の中が、知識で、飽和すれば、もはや思考の余地は消え失せる。思考というのは、足りないところで、すなわち、生活の必要、生存の必要から、本能的に、頭に起きる変化である。何もかも満たされた環境では、思考は必要ないのだ。知識の欠落が、思考を呼ぶ。考えるということは、考えるということの性質に反しないように取り扱わなければならない。意味もなく覚えさせるということは、思考には、害となる。思考は、意味、いや物語という形にするととにかくすんなり受け入れる。ストレスがないのだ。脳の抵抗がないのだ。脳のこの性質も脳と付き合う上で、とても役に立つ。物語は、プロットでもいい。知識は、すべてプロットにするとよい。
わたしは、もう40年余も思考というものについて考えて来た。子どもに思考力をつけるには、どうすればいいか、をライフワークとして、取り組んで来た。あらゆる方法を試して来た。そのために、多くの書物を読んで来た。子どもたちに試す、その効果を検証する、そういう40年であった。
こうして、わたしは、思考力をつける、方法、をわたしなりに、積み重ねて来た、それは様々な症状を瞬時に捉えて、蓄積された工夫を適用する、ある意味職人的技術である。工夫と試行錯誤、と言っていいかもしれない。失敗を重ねながら、ある時は思わぬ効果に喜びながら、指導の経験値を積み重ねて来た。
ようやく達観の境地に達したのか、と思うことが多くなった。それは、成功裡に指導が進むことが圧倒的に増えて来たことが、わたしにそう思わせていることは、間違いない。難しいのは、小学生指導であって、高校入試では、99%の成功率にある、と思う。1%は、わたしのコントロールの及ばない問題からのものである。模試を外部に申し込む、しかも回数が2回など、母親が勝手に過去問をやらせる、内申、定期テストの結果を隠すなど、そもそも指導を受ける本人が指導に従わないなど、わたしの指導のコントロールの外にある場合、受験がうまく行くはずもない。これは、不可抗力である。
特に、多くの親子が陥る、高校入試における失敗パターン‼️
中2までに、準備を終えなければならない、という指示に従わない場合。
これには、季節講習における指導時間の不足は当然として、指導時間は十分なのに、本人が実行しない、つまり怠けたためも含まれる。
高校入試には、手順がある。小学期の基本完成を前提として、中学は、2年間で、準備を完成させること、が、大前提である。
小学期の基本とは何か。高校入試の準備とは何か。
早ければ小2から、計算マスター、割合思考2年、算数訓練1年、この過程を通して、思考スタイルを完成、勉強のスタンスの確立、学習の生活習慣化、である。
この状態で、小6の2月から、英語、数学の受験指導をスタートさせる。数学は、早い子なら、中1で、偏差値68の数学まで解ける域に達する。英語は、中1で、中3までの文法を一気に終わらせる。中2の夏前には、英文解釈の訓練に入れれば、ベストだ。
理科、社会も中2の夏までに一通り終わらせておく。
国語については、これまで、いいものがなく、正直指導がやりにくかったが、いまは、「国語ポイント集」によって、完璧な対応がとれるようになった。いい教材がないということでは、長年英文解釈のテキストにいいものが手に入らず、困っていたが、近年は、研究社の高校用副読本(絶版)を手に入れ、その悩みは解消しました。都立中高一貫校で使っている「増進堂・受験研究社 Strategic Reading Advanced 2026年度版」はなかなかいいようです。
高校入試というのは、中3の6月には、もう模試が始まるわけで、中3になってからでは、まず模試に対応できないことは、誰でもわかることです。つまり、中2までに完成は、暗黙の前提です。そこから逆算して、カリキュラムも決まる。要するに、準備は、早ければ早いほどいい。ところが、多くの、「都立しかない」という家庭の親には、受験も節約の対象で、その意識がない。だから都立に行けることはない。都立で失敗する。受験というのは、カネのかかる、一つの投資です。ですから、投資する必要はない、と考える親には、意味がない。低偏差値の私立は、公立中学の8割の子たちの、難民収容施設となっています。底辺都立に行くのも、そういう子たちです。そういう学校は学校環境も悪く,中途退学者も多い。朱に染まれば赤くなる典型です。
今は、高校は二極化が進み、難関私立、都立独自校(竹早、三田含む)とそれ以外に分けられます。
ほとんどの中学生、すなわち90%は、後者に吸収されます。難関私立・独自校に行けるのは、2%の選ばれた子たちです。そして、その2%は、才能は前提に、早期対策プログラムに参加した者のみの特権となるのです。
高校受験は、すでに小学2年から、始まっているのです。中学受験、受検で、優秀な子たちが、パスした残り、その中の2%が、最後に残されたエリートへの門を競うのです。
わたしはことあるごとに、早期指導の大切さを訴えてまいりました。しかし、わたしの警告が、子ども本人にも、親にも、その深刻さが、理解されることは、困難でした。いつも対策は、泥縄になる。わたしは、結局そういう修羅場ばかりを潜り抜けて来たように思います。いくら事態が深刻になるということを訴えても動かないものだ、ということ。それは生徒本人に特にわかってもらえないということ、そして親もその深刻さを「なんとかなる」程度にしか考えていないこと、これが現実です。しかし、中3になって、英語が取れないこと、理科、社会が壊滅的であること、そういう現実に初めて立ち会うことになる。そこから始まる泥縄のドタバタ、これはいつか来た道でした。






