2026.10.26
🟩「額に汗する」ことなく近道をする人は誤った道を行くことになる‼️
投資家ワイコフの言葉❗️
何か❓方向が違う❗️そう思ったことはないですか。
よくZ世代ということが、言われるが、わたしにはオルテガの「大衆」という言葉がピッタリくる人たちが今の親子世代なのではないか、と思っている。
オルテガが示す「大衆」の主な特徴
①権利は主張するが義務や責任を負わない:近代文明がもたらした自由や生活水準の向上を当然の恩恵として享受する一方で、それに見合う努力や自己規律、責任を持たない。
②自分に高い要求を課さない:現状に満足しきっており、自分自身を向上させようとせず、凡庸であることに居直る。
③「甘やかされたお坊ちゃん(子供)」:歴史の恩恵(技術や法、平和など)を当たり前の「自然環境」のように受け取り、その基盤を維持するための苦労や先人への感謝がない。
④周囲や世論に流される(群衆化):自分で深く考えず、流行や周囲の空気、決まり文句に追随し、他人と同じであることに安心する。
⑤自己中心的で他者を攻撃する:自分と異なる意見や優れた存在、少数派を嫌い、不寛容な態度をとる。
オルテガは「大衆」に対し、「貴族(エリート)」を対置しました。ここでの貴族とは生まれや身分ではなく、「自分に対して厳しい規律や義務を課し、高い基準を持って生きる精神を持つ少数者」を指します。なお、オルテガは「専門家(科学者、技術者、医師など)」の中にこそ、自分の専門分野以外の教養や全体的な責任感を持たない「精神的な大衆」が増えていると警鐘を鳴らしました。
わたしは、ワイコフの「額に汗する」とは、昨今の無定見に大手塾に子を放り込む親の選択、その子にもたらす結果にその姿を見ています。
美味しいものが当然に食べられる、欲しいと思うものはたいてい与えられる、そういう子どもたちに、何かを期待することは土台無理な話しです。満たされた子たちには、何かをする必要性がないのです。黙っていても親が先回りして何でも与えてくれる。これを飼い殺しといいます。親は可愛さのあまり、子を無力化してしまうのです。甘やかされて育った犬は、飼い主に吠えがかかります。餌を食べているときに、手を出すと、飼い主にでも噛みつきます。甘やかされて育てられた、勘違いの子どもが、長じてどうなるか。飼い犬の例は、その模範解答です。犬は後から調教できます。しかし、人間はそれが不可能です。捻じ曲がった心は、そのままです。人間はいったん作られると形はそのままです。どの世界でも、二代目が、使いものにならないのは、そういう理由です。芸能人の子どもが、犯罪者になるのは、絵に描いたような実例です。物を与えるという育て方は、危険な臭いがしますね。親は、精神的な規律を与えなければならない。いわゆる躾けである。社会のルールを、人間としてのルールを教育しなければならない。我慢を知らない、我儘な子どもに、我慢することを教えなければならない。子どもの心のままに、親が物を与えることで満足させていれば、物欲は際限がないから、終わりのない物欲を満たすほどに、制御の効かない化け物が出来上がる。出来上がってからではもう手遅れである。もう注意してどうかなる段階ではない。社会には通用しない、裸の王様と成り果てた化け物がこれから親を食い殺す。
Z世代とは、満たされた社会が量産した大衆にほかならない。すでにZ世代の親世代、その前の世代から、大衆化の芽は見えていた。SNSの誹謗中傷の氾濫は、大衆化した、人間の捌け口にほかなりません。親世代が、精神を蔑ろにして来た結果に過ぎません。
今の日本の政治家を見たらわかる、と思います。大衆が政治をしている。明治の政治家に見られた気骨というものがない。国家を動かす計がない。国家百年の計は微塵もなく、目先の利権、自己保存、我欲で、政治を私物化するまで朽ち果てた。
子どもの8割は、境界知能、その周辺児です。難関大学に行けるのは、2%です。これは、紛れもない現実です。しかし、親は、そんなことはお構いなしに、自分の子をどれほどの優秀児と思い込んだのか、大手塾に入れるのです。
ここで断っておきますが、大手塾であろうが、巷の中小塾であろうが、わたしの知る限り、2年も3年も通わせて、基本のできていた子はほとんどいなかった、という事実です。塾を探し、この塾がいいと信じて、通わせた結果は、通わせたことの意味が皆無に等しい人たちしかいないということです。
散々通わせて、効果はなしです。大衆化した親の選択は、重要な決断、選択において、愚かさを具現するということです。大衆は、その選択においても、大衆的選択をする、ということです。判断軸を持たない、周りの雰囲気、風潮で、判断を左右される、という人たちが、自滅の選択をする、話しです。高市は、大衆の代表の大衆です。
子どもたちの8割は、低偏差値、底辺都立に吸収されます。これらの学校は、難民収容所です。あなたたちが、どんなに我が子を良いところへと奔走しても,その試みはたいていは無駄に終わります。それが現実だからです。才能に恵まれた子と競っても最初から無駄です。
大切なこと、それは子どもの能力を理解し、その能力に見合った、教育を授けることです。これは、才能に恵まれた子でも同じことです。才能に恵まれれば、小4からの指導でも、高校入試なら、筑駒、開成、渋幕を連覇した子もいます。才能さえあれば、思考の力でそういうことも可能です。不幸にも、才能は普通なら、それは、なおさら丁寧な、思考構築が必要ということです。大手塾に一年通って、計算も未熟なまま、割合も理解してもいない、そんな子が、うようよすます。夥しい数います。みな親の選択の結果です。しかも、親はそのことに全く気がつかない。そこまで大手を信頼する?いやこれはただの手抜き、放置でしょ。
現代の子どもたちは、あらゆる場面で、思考停止、思考抹殺の危険に晒されている。スマホは、子どもから「考える」という機能を削除するであろう。今の子は、何もかも用意されて、後は選択さえすればよいように、飼育されている。ゲーム漬けにされた頭、コンビニ化された頭、何もかも、与えられる中の選択だけ、これが脳の破壊でなくて、何なのか。
竹の会のような、考えることにこだわる、工夫して解決することの喜びを教えるところは、嫌われる。相手にされない。考えることは、我慢することだ、辛抱することだ、ということを教える。言葉ではなくて学問を通して教える。だから時間がかかる。一日指導してもなんの成果もない日ばかりだ。すぐ結果を求める親は早々に立ち去る。そして大いに行く。わたしには自殺行為にしか見えない、ずっとそう思って立ち去る親子を見てきた。考えるには、定義の大切さを知る、定義とは、約束であり、そこから規律、論理に触れる。責任をとらない今の政治家を代表に世の中には責任というものを都合よく解釈して結局何もしないことが責任を取るということだと考える人ばかりになった。責任は論理を知ることから学ぶ。中学受験で成功してエリート大学に行き政治家になった,官僚になった,そういう人間には,責任というものがない。都合の悪いことは避ける,逃げる。そういう人間になる。
定期テスト対策塾で、思考を破壊してしまう子‼️
定期テストの対策と言って、その学校の過去の定期テストを何十年も蓄積し、それを売りにする塾があるらしい。国立附属、難関私立準拠塾らしい。そんなことやったら、思考なしで、何が出たか、それを覚える、そんなことやってたら、結局行き詰まるのは目に見えている。その場凌ぎの、喉元の熱さを取るだけの、小手先のその場凌ぎばかりやってたら、大学入試なんかできるわけがない。だから国立附属、私立一貫校の落ちこぼれは潰される,ダメになる。考えるという過程をスキップしたら、どうなるか。その場凌ぎで庇えるのは限界がある。いつまでも誤魔化しで問題を先送りすることはできない。先送りの先にはその「先のない先」が待っている。
わたしは、国立附属の、そういう落ちこぼれを指導したことがある。正面から勉強に取り組む姿勢が欠落していた。解き方を覚えて、類似の問題を真似て解く、そういう姿勢が染みついていた。それが限界であった。何かが欠落している。きちんとした、真面目な子なのに、問題と向かい合うことができないのだ。問題を見て為す術を知らないのだ。逃げる、回避する、ことが習性化されていた。何かの趣味に逃避する、そういう傾向が、親も子も染み付いていた。一生、考えることはしない、立ち向かうことはしないのだろう。国立にはその学校の過去の定期テストを集めて、定期テスト対策を専門にする塾があるらしい。その親子はそこに行った。思考と向き合うことを回避して、過去のテストを覚えて、間に合わせる、それじゃ、初見の問題はどうやって解くの、応用された問題は解けないでしょ。何の解決策になっていない。どんな問題が出されても、基本から読み解いて、考えて解く、そういうスタイルがない。それこそが、将来の大学入試を見据えた対策なのに。
国立、私立の小学生には、その類いの落ちこぼれがそれなりにいる。つまり、事情は、公立小と変わらない。境界知能、その周辺児が、一定数いることは間違いない。
いずれにしても、小学生の時、そういう子は、然るべき訓練をすることが、大切となる。それで抜けられるかは、わからない。しかし、小2ないし3から訓練して来た子は、ほとんどが成功している。その中には、小3に来て、絶望的と思われた子が、高学年になると、伸び始め、都立青山に合格、早稲田実業は1科目だけ数点足りなかった、そういう子もいた。小2からの指導の威力はすごい。小2から来た女子は、東北大へ合格している。小2から来た男子は桜修館、法政第二、立教補欠合格している。小2から来た女子は、大泉に合格している。
ただし、小2から指導できる子は、少なくとも勉強にスタンスが向いていなければならない。
わたしが、多くの親が、大手塾なり、どこかの塾なり、子どもを何年も通わせて、その結果、基本が何もできていない、計算ができない、割合は何もわかっていない、その結果、思考するという習慣もない、そういう子をたくさん見て来た。みな大手塾を始め、それぞれの形態の中小塾に、1〜3年通って来ての結果である。それまでに気づけなかったのか。そうだ。親は、チェックできない、と思い込んでいる。塾側は、口当たりのいいことを言って来たはずだ。こうして無駄な期間を過ごし、公立中学へと流れ込む。高校は難民収容所としてのそれになることは自明の事実だ。わたしは、もう何年も、早期指導の必要性を訴えて来た。小2から、基本を身につける。それだけだ。基本とは何か。まず計算である。小2でも1年かければ、難関中学の計算が解けるまでになる。早い子なら3か月。計算は、マスターした後も、指導の前に必ず4題解く習慣をつける。計算をマスターしたら、割合を指導する。これには、2年みっちりかける。割合の原理を徹底して訓練する。その過程が、思考養成期間だ。この過程は、思考習慣、勉強スタンス、勉強の生活リズム化という大切な財産を手にする期間である。やがて確立するであろう主体、思考態度が、その子のこれからのかけがえのない財産となる。竹の会が持たせてあげる、送り出して来た子たちの未来の活躍の原動力である。竹の会が送り出して来たこの中に,東大、京大、一橋大、東北大、早慶が多いのは決して偶然ではない。






