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《渋谷で創立40年》都立中・都立高の受験対策

現代受験論(桜修館に強い塾 都立独自校に強い塾 開成高校合格・筑駒合格・渋幕合格実績 駿台模試全国第1位)🟩勝者の形(必勝法)だけ真似しても退場するだけ‼️

2026.11.05

🟩勝者の形(必勝法)だけ真似しても退場するだけ‼️
 勝者は、形で、方法で、買ったわけではない❗️
 形、方法は、たまたまそうなっただけ、偶然に過ぎない。重要なのは、形、方法ではない。持って生まれた能力、その能力に溺れることなく、工夫しながら、失敗しながら、その度に苦心して切り抜けて来た過程が、今の成功へと繋がったのだ。
 世の中は、何か成功すると、すぐに「その方法」がよかったから成功したのだと思いこむ輩に溢れる。だから方法を売る商売が流行る。いつか東大医学部に3人の子を合格させた佐藤ママとか(?)いう主婦がブームになった。佐藤ママは本を書き、テレビに引っ張りだこで、全国を講演会で回った、らしい。テレビはアホだけど、佐藤ママが、幼い頃からの育て方を解説し、本を出す、これは笑えた。視聴者がバカなのはわかるけど、テレビっていったいここまでレベルが低かったのか、とここは笑えなかった。テレビは、今のまま下らないお笑い主体の、おふざけばかりやってたら、誰も見なくなる。ジャーナリズムであることを捨てたときから、テレビはもう終わっていた。報じないことが生命の朝日新聞と同類だ。批判の素振りだけでお茶を濁していればいずれゴミとなる。
 いいですか。方法はその人がたまたまとった結果に過ぎないのです。
 方法の前に、長い苦しい、苦悩の期間がある。あれこれと工夫し、うまく行かなくて悩んだ期間がある。あの方法、この方法と方法も変えたことだろう。悩んであれこれと本を読んだだろう。何度も何度も失敗し、自分が見つけた方法は、自分仕様の方法だ。というか、実は、方法が問題なのではなく、方法に至る過程が、成功をもたらしたのだ。人は、誰かが成功すると、その方法がよかったからだと考え、その方法を知りたがる。成功した者も方法がよかったと信じて人に方法の価値を喧伝する。
 わたしは、高校数学が苦手だった。いやもともと数学はできていた。だから数学ができない自分がどうしても承認できなかった。いや許せなかった。
 数学は独学だった。旺文社の数学解法事典を見て、どんな問題も載っているのに感動した。それでそれを読むことにした。1500ページはあったろうか。100ページほどやってこれは無理だとやめた。なら何をやればいいのか。数学はわたしにとっては、読むものだったのだ。解くものではなかったのだ。試行錯誤を重ねて、本屋で見つけた「数学の技法IIB」を読むことにした。拾い読みしたらメチャクチャわかりやすかったのだ。実際面白いように理解できた。腑に落ちた。それまでの霧が晴れたような爽快な気分になった。何回読んだだろうか。それから蛍雪時代という雑誌の広告にあったZ会の数学IIBの問題集を取り寄せた。200ページほどの薄い、問題と答案がセットになった問題集だった。今度は、それを読んだ。20回以上読んだ、読むときは、いつも赤鉛筆と青鉛筆で、線を引いた。
 あの頃から、わたしの勉強法は、とにかく「読む」方法だった。
 わたしの方法は、他人が真似してどうかなるものではない。わたし仕様のものなんだから。中学のときは、最初は、ノートにまとめた。サブノートだ。まとめたらそれを何度も読んだ。サブノートは、まとめる過程で、理解し覚える、いやまとめながら理解したように思う。しかし,この方法は、出題範囲のない(広い)入試には使えない。中3のとき、学校からもらった教材を十数回読んだ。そしたら学年2番になった。このときから、わたしの方法は「読む」勉強になった。
 でも、高校に入ったら、途端に挫折した。中学と高校のギャップがあり過ぎた。学校は県下の御三家と言われた進学校だった。県立である。上位の成績で入学したことは、いきなり委員に任命されたことでわかった。しかし、速い進度、大量のプリント、与えられた英語教材のノルマなど、戸惑いしかなかった。要するに、わたしには、勉強と討ち死にする覚悟がなかった。それだけのことだ。わたしが、そのことに気づくまでに、時間がかかったけれど、わたしは、「読む」勉強をようやく取り戻した。合格するのだという覚悟もできた。そう、方法は真似するものではない。方法はその人だけの仕立てのいい洋服、問題は着る人の資質なのだ。決して、方法なんかじゃない。確かに、方法は参考になることはあるかもしれない。しかし、その方法はその方法を作った人が心から馴染んで来たから方法なんだ。取って付けたように方法だけ真似しても意味はない。大切なのは、その方法でなければならない必然の過程なのだ。またその必然を生んだのはその人の資質以外の何ものでもない。
 わたしは、苦労の末に見つけた、わたしの方法を客観化して、竹の会の方法として、実践して来た。竹の会の40年は、わたしの、手強い、なかなか思うようにならない,子どもたちとの苦闘の歴史であった。様々な、新しい受験生を迎えるたびに、新しい難題に突き当たり、その都度解決に苦しんできた歴史であった。そういう中で、わたしの方法は試練に耐え抜き、さらに磨かれ、洗練されて、生き残って来た。わたしは、竹の会の40年が作り上げて来た方法を何の迷いもなく、実行することができるまでになって、あの忌まわし苦悩から解放されたのだ、とよく思い返すことがある。いや、かつての竹の会の闘いを懐かしく想い、感慨に浸ることがある。苦しい,格闘の思い出であった。

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