2025.12.10
🟩幸福とは何か‼️
受験は子どもを幸せにするか?
自分は今幸福か、と問えば、幸せは途絶える。なぜなら、幸せとは、奇妙なもので、幸せかどうかを自身に問うた途端に消え失せる。幸せとは意識した途端、疑った瞬間に霧と消える、そういう性質のものだからだ。
幸せか、と相手に問うのはどうか。問われた相手は、自分にやはり問うであろうから、やはりたちまち幸せは消える。
してみれば、相手に「幸せか」と問うこと自体が、言ってはならない、行為であろう。「幸せか」と尋ねて「幸せよ」と答えるのは、だからありえない。相手を安心させるための言葉でしかない。
幸福は追いかけてはならない。なぜなら、幸福には、追いかけた瞬間に逃げてしまうという逆説的な性質があるからだ。幸福は、追いかけるものではない。飽くまで、一瞬の感情であり、意識した途端に泡と消えてしまう運命にある。
自己の幸せや楽しさを追求する人ほど実際の幸福度は下がる、という論文がある。それは、自己の幸福を追求すればするほど、人は他者との親密なふれあいを疎かにする、からであるとされる。
幸せへのこだわりは、現実の不満を強調する。幸せばかりにこだわれば、今の不満が強調されて見えるのはあたりまえである。
さらに幸せ志向の人は、ポジティブな期待が大きすぎるあまり、ちょっとしたマイナス面にも意識が向かう傾向が顕著となる。つまり、幸せ志向の強い人は、ナイーブナで傷つきやすい。さらに、幸せを追求する人は、ネガティヴを悪と考える傾向が強い。
◎「他人との比較」
snsで他人と自分の暮らしを比べる回数が多い人ほどうつ症状が出やすいと言われる。他人比較は、ストレスや不安を感じやすいのだ。また、snsで他人の投稿を、見て気分が改善したとされた場合でも、その後にメンタルが悪化する現象が認められる、ということがわかっている。
他人との比較はいかなる形でも私たちの幸福感を、下げるのだ。
なぜか、それは、比較をすることで自己を評価する基準の外部依存の度合いが進むからだ。他者を見て優越感を抱く行為というのは、他人を通して自分の評価を判断しているということに他ならない。自分の気分や自信の置きどころを他人の行動に委ねているのだから自分の気分も他人次第ということになる。
しかし、他者に預けた自信ほどもろいものはない。他人次第でどうとでも転がる運命にあるからである。だから常に不安定な状態が続くことになる。
今は、他人比較があたりまえの人たちが犇めいている。snsだって結局、羨ましい他人と自分の比較、不幸に遭った他人と自分を見比べて自分はまだマシと安心する、そういう人たちの世界である。snsは、匿名、つまり無責任制度により、放たれた自我が暴れ回る世界である。平気で人を貶し、溜飲を下げる。ここでは、人格はない。
主体性を持たない、自己の見識を持たない人たちの世界である。大勢の他人の意見に流される自分がいて、なんとも虚しい世界である。受験を志す人がそういう世界、つまり他人比較の世界の住人なら、受験は子どもにとっても親にとっても不安定な精神を再生産し続けるであろう。習い事、稽古事は、sns的世界の住人には、まさに他人比較の産物なのだから。竹の会では3年ほど前から受検一筋という小学生が消えた。そういう小学生は絶滅危惧種なのだろうか。何が何でも合格したい、という小学生、夢中に頑張る小学生が消えた。昔はSNS的他人比較の小学生もそれなりにいたが、必ず受検命の小学生もいた。合格していったのはもちろんそういう小学生だけだった。他人がどう見るかではない、自分の向学心・向上心が受検を選択したという小学生はそれなりに完成度の高い、独立心、主体性豊かな小学生であり、幸せは他人がもたらすのではなく、自己の心が呼び込む小学生である。






