2026.01.21
🟪高校入試には傾向があると信じ、実力もないのに志望校の過去問をやれば受かると信じる親子が後を立たない‼️
傾向は傾向でしかない‼️ 一般的な出題傾向というのはある。例えば都立なら、偏った、マイナーな問題は出さない。私立なら、確率は必ず大問で出すとか、文章題が必ず一題ある、というのはある。そしてその文章題にも癖があり、やたら文字を使うというのはある。だから傾向を一応知っておく、という意味では、傾向も意味はある。
しかし、傾向は、漠然と知っておればいいのであり、ここで深入りすると、傾向ではなく、予想になる。つまり、「こういう問題が出る」と考えてしまうのだ。これの何が危険かというと、思考停止のおまじないになるからである。試験において、何がリスクかと言えば、思い込みがあらゆる可能性を排除してしまうことである。その意味で、思い込みは、それがそのまま思考停止のおまじないになる。
傾向というのは、抽象的なものである。
「傾向(けいこう)」とは、物事や人の性質・行動が特定の方向へ「かたむくこと」「そうなりがちなこと」、または「あるパターンや方向性が見られること」を指し、統計や観察で明らかになる流れや特徴のことです。例えば「上昇傾向」は数値が増える流れ、「左翼傾向」は思想的な偏りを意味します。
以前、ある母親は学校説明会で「傾向を聞いてきた」と誇らしげに報告してきましたが、傾向は傾向でしかない。大まかな方向性です。結局は、実力をつけることが一番の対策なんです。傾向なんてのは、過去問をペラペラと見て、ふーんでいい。傾向に縛られると、たちまちそれが傾向ではなくなり、次はこれが出るという思い込みを形成する。だから軽く遇らう程度でよろしい。
過去問の使い方は難しい‼️
志望校の過去問を買って、十回以上やる受験生がよくいる。どうも母親が共犯のようだ。解き方も答えも覚えてしまい、もう受かったような気分になっている。こういう親子の結果報告は、いつも決まりきった定番の言葉であった。「今年は、新傾向でした」と。
決して新傾向なんかではなかった。例年と変わらない。彼ら彼女らが新傾向と言っているのは、同じ問題か、類似の問題がなかったという意味なのだ。実力がない、類似の問題が出るという期待がいつしか確信になる。そもそも思考がないのだ。志望校の過去問は、頭を麻痺させる麻薬のような存在なのだろう。傾向にこだわるとろくなことはない。
過去問は、実力判定に使うもの‼️
時間を測って、制限時間内に解く、その力を測る。だから、過去問を何年度分もやるのは、あまり意味がない、と一応は言える。
しかし、仮に志望校の50年分の過去問をやったとしたら、どうだろう。
竹の会の過去問合格法は、首都圏の偏差値70前後以上の過去問を、5〜7年分やるもので、これはどうであろうか。
過去問合格法の場合には、解けるまで解く。時間制限なしである。通年ごとに解くので、出題の体裁に慣れる。解説は、わたしのオリジナル手書きである。実は、竹の会では、過去問合格法で、合格を出して来た。志望校の50年分の過去問をやったのは、令和4年の開成、筑駒合格者の時である。竹の会にあった、過去問集は、抜けた年がかなりあったので、集めるのに苦労した。ネットでなんとか集めることができた。これは時間を測ってやった。開成50年、筑駒50年分、全科目である。彼は、渋谷幕張高校の、特別特待生15人の一人に選ばれたが、渋幕の過去問は一切やっていない。
ここで断っておくが、過去問合格法がすべてではない。公開しない竹の会の秘策が実はメインであった。過去問合格法は、最後、直前の仕上げに使ったに過ぎない。誤解をしてほしくない。
開成、筑駒の合格者は、ほとんどが、サピックスや早稲アカの生徒である。つまり、大手進学塾の生徒である。そこがアキレス腱である。駿台模試で、竹の会の子は、全筑駒志望者の3位以内、全開成志望者の3位以内を取っている。大手には、もともとの天才が集まるから、これは仕方ない。わたしは、わたしの戦略で、大手の天才たちを牛蒡抜きにしたのだ。彼らの弱点は、すべて同じ教材、同じ講師、同じ授業にある。環境がすべて同じなら、その序列は、能力順になるしかない。同じ教材で、その教材はすべて過去問から作られている。これが彼らの限界である。竹の会が勝てたのは、ここを攻略したことである。何をしたのか。それは言えない。
とにかく竹の会は、中2までは一切駿台模試などの模試は受けていない。ひたすら中3の6月の駿台模試を想定して、戦略的指導をしてきた。水面下から、中3の6月の駿台模試で、突然全国順位一桁に躍り出た。サピックス、早稲アカ、Z会などの天才たちを、牛蒡抜きにして見せた。それが竹の会である。竹の会やったり!!






