2026.01.29
🟦国語の読解‼️
例えば、小説というのは、(話しの)筋を通さねばならない。人間の性質、交流、起きている物事すべての裏にある感情的・心理学的な理由について、一貫性がなければならない。これだけだ。小説は嘘の話しだ。事実と違って筋が通っていなければならない。小説には一貫性があるのだ。
それでは評論はどうか。
評論を読むにはコツがある(石原千秋「未来形の読書術」)。「ふつうはこう思っているだろうが、ぼくはこう思う」と書くのが評論である。常識と言える部分と、その批判的検討(批評)という二項対立が評論の形だ。つまり、評論とは、「ふつう」が常識というのはわかっているのを前提に「実はふつうではない」ということを書いた文章のことだ。
小説は、感情・心理の一貫性が求められるが、評論では、論理の一貫性が求められる。「ふつう」の場合の論理についての一貫性、「実はふつうではない」とされる場合の論理の一貫性、それぞれに筋が通っていなければならない。
読解とは、意味の一貫性を追うことである。筋を追うことと言ってもいい。まず読むこと、そして文の意味を拾うこと、意味と意味に一貫性があるかを問いながら読むこと、こうして、読解とは、文脈を追いながら意味の一貫性をチェックすること、と言える。これが物語なら、意味ではなく、心理、感情の一貫性を追うことになる。物語は、文章に表れている言葉から、感情を推測し、その感情の流れるを追う、その一貫性を問うことである。ただし、小説というのは、もともと変化を表現するものだから、感情が変化していくのは前提である。変化したら一貫性がないというのではない。変化も筋が通れば一貫性がある。だから、総じて、読解とは、筋を通すことである。






