2026.01.29
🟦易きについたあげくの自業自得‼️は、気にかける必要など一切ない❗️
小学生の選択は、多くは親の判断である。もちろん子どもの意思が親の意思と一致すればそれは子どもの意思でもある。小学生の勉強放棄は、親にもどうにもならないであろうが、どうにかなることもある。まだ子どもだから。親はだから諦めないで、子を宥めることになる。
中学生は、もちろん親は子どもの希望を聞きながらも、親の意思となる。小学生と決定的に違うのは、中学生が勉強を放棄するときは、たとえ親でもどうにもならない、ということである。中学生の判断は、もはや親がどうにかするということできない。ファイナル・アンサーである。
これは当然IQも関係してくる。IQが低ければ勉強にも興味は湧くまい。
部活は、頭を使わなくていいから、その意味の解放感はある。ゲーム、スマホ、その他は、勉強からの逃げ場という共通項でくくれる。
自業自得という言葉はこのためにある。身から出た錆という言葉もある。先のことを予測できるのが、人間である。しかし、バカは、先のことなんか考えない。古来、人間社会は、易きについたために、後々苦労した人たちの系譜でできている。
人間の心は、いくらでも弛む。放っておけばいくらでも易きに流れる。だからこそ歴史は、自己を律することが生存に繋がることを教えてきた。自分を律することのできない人間、易きに流れる人間は、楽をすることを好むのが、脳の性質としても、いずれ世の辛酸を嘗めることになる。そんなことはわかり切ったことだ。親が庇ってくれるのも子どものうちだ。親が庇えるのも
親が若いうちだ。年老いた親はもはや庇うどころか、自分の面倒さえまともに見れない歳になる。子も親もその報いを受けることになる。
何が間違っていたのか。子も親も先を想像することができなかった。神が与えてくれた言葉は先のことを予測する道具であったのに。易きに流れる選択をしていれば、いずれ生存を危うくする、そのことはわかり切ったことだった。ちょっと前まで、フリーターというのが、若い人に流行っていた。就職しないで、アルバイトをやる。これには、会社には、新人研修やなにやら煩わしいことばかりだからそういうのが嫌でフリーターを選ぶという説明があった。そういう人もいたのだろう。しかし、Fラン大学だとろくなところに就職できない。また有名大学出ても、希望の会社に入れないということもあろう。だから「自分探しの旅」という言葉も流行った。もともと探す自分なんてないのに。中身のない人間に自分探しなんてない。自分というのは、社会に出て揉まれて、作られていくものだ。遡れば、中学時代の易きに流れた選択、生活に行き着くことであろう。小学時代の親のしつけに行き着くことであろう。すべては繋がっている。三十、四十代になって、世の辛酸を嘗める現実が身に染みるとき、分かるのはあまりにも愚かだったことであろう。そんなことは、いくらでも予測できたのに。易き道を避け、律する道を選ぶ。
自業自得の人間なんか気にかけることは一切ない。社会に溢れる、人生の挫折者が、自業自得なら一切気にかける必要はない。それが生存競争なのだから。
少し身近な話しをしよう。
算数や数学の問題で、すぐ解答、解説を見て終わらせる。大手塾だとテキストの問題を解きもしないで、解き方の説明を聞くだけで済ます。こういうのを易きに済ますという。教科書をまとめるのが面倒くさいといって、整理したテキストを欲しがる。自分で分類して整理するということが、思考の深化にどれだけ有益か。受験を大儀に、人間にとって本当に必要な「考える」という機能を未分化なままに大人になることがどんなに生存にとって脅威なのかもわからない。これは子よりも親の誤選択である。親の選択が子を貶める。子が、三十代、四十代に辛酸を嘗めているのは、初動の親の選択の誤りしかない。子の躾け、教育をするのは親なのだから。易きに流れる躾けをしてきたのは親である。親も易きに流れるのならそれがそのまま教育となる。






