2026.02.01
🟩IQの壁‼️ 仮定する能力の欠如がもたらす、どうにもならない事態‼️
勉強には、向き不向きがあることは誰でもわかっている。しかし、現実社会では、庶民が人並みの生活を獲得するためには、どうしても勉強という過程は避けられない。社会は、勉強ができる者が、まともな生活ができるようになる仕組みになっているからである。持って生まれたIQに恵まれた者は、親ガチャに恵まれ、勉強さえ怠らなければ、この社会を生きていける。一応である。IQが足りない者には、この世は生きにくいのが現実である。親ガチャも子の将来には決定的である。しかし、親が教育熱心としても、IQに恵まれなければ、勉強で花咲くことはふつうはない。 わたしの実感では、公立小の8割前後は、境界知能プラスアルファ以下の人たちである。つまり、基礎学力さえつけられるかわからない。そういう層に習い事や稽古事を夢中でやらせるのが、また月並みな親と言える。仮にそういう子に教育費をかけたとしてもほとんどは虚しい投資に終わる。かけた教育費は、ほぼ無駄である。こういう子たちというのは、バスケ、サッカーに明け暮れるか、習い事、稽古事だけは律儀に続け、そしてなぜか英語塾だけには別のようで、小学時代を過ごす。またそれにプラスしてなぜか都立中高一貫校受検のための塾に通う。
問題は、IQがないのに、自分のケパシティーを遥かに超えたノルマを課せられていることである。まぁ、何を考えているのかわからない親のやってることだから、子どもも何をやってるのかわからない。こういう子たちの共通点は、まぁ、好きなこともやらせてもらって、欲しいものはたいていのものは買ってもらえるから、適当に、与えられるものになんの抵抗もなく従うところです。積極的な頭の働きなんて欠片もない。つまり、思考をするということもなく、思考の訓練、その機会もない。
習い事をしながら、都立中高一貫校に受かると本気で思っているのだろう。しかし、竹の会の合格者には、そういう虫のいい合格者はいない。知能の高い子たちが受かっているのは当たり前と言えば当たり前。内申の「よくできる」が、9割超の子たちが、ほとんどである。
確かに、学校の内申は、あてにはならない。小学教師も、中学教師も、たいした大学を出たわけではないし、だから贔屓という、主観的な事情を平気で行使する。感情が内申に反映する。しかし、それにしても、内申の「よくできる」9割超は、IQの高い蓋然性が高い。そうでなくてもEQ(自分や他人の感情を認識・理解・管理・利用し、適切に対処する能力。IQ(知能指数)認知能力)は高い可能性が強い。内申を高くもらえるほどの心の振る舞いがあるということだからである。こういう子は、習い事も優等生である。しかし、こういう子でも、受検、受験は「ながら」やれば確実に失敗するのだ。だから境界知能プラス層が、合格できるわけがないのだ。
親は自分の子の知能を全く考えないで、現実には、学校の内申が悪くても、勉強しないことは見ていても、できないという現実があっても、塾に行けば「合格させてくれる」「合格できる」と勝手に妄想する。それがまた大手塾の思う壺でもある。
IQとは、仮定する能力のこと、と言っていい。親にも仮定する能力が欠けている、ことが、事をややこしくしている。しかし、現実は、シビアーである。子どもは、IQの制約に、理不尽な非難を受け、本人の責任でもないのに、苦しまなければならない。親が、子どもが、できないのは、勉強しないせいだと、短絡し、詰る。しかし、勉強しないのは、IQの制約ゆえに、わからない、したがって、おもしろくないからである。塾で居眠りをするのは、IQが低いからである。授業が面白くないからである。部活で疲れてますます眠気が募ることであろう。「面白い」から勉強するのである。「面白い」から勉強を継続するのである。何事も面白くなければ続けられることはない。
子どもたちに、面白さを体験させることは、指導の要である。成功体験の積み重ね、これは小さな成功をコツコツと積み上げていくことを心がける。とにかく、できなければ面白くない。自分でできたという達成感をとにかく創ること、これが指導を成功させるコツと言えば言える。
とにかく塾というのは、常に、IQを見切り、そこから指導の内容を考える、組み立てる、そういう中にいる。IQの高い子に出会えば、またそれはそれで、才能を発揮するための指導の内容を考える。そういえば、「開成を受ける」と言われれば、そこからまた指導の内容をどうするか、と考えたわけである。竹の会の、わたしの指導とは、いつも子どもの状況に即して、その内容を構築するところから、着手したきたものである。あれやこれやと悩むけど、決まるのも速い。経験があるから。
竹の会の指導は、常に、その人を見て決める。それはIQに合わせて考えるから、ただそれだけのことである。






