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現代受験論(桜修館に強い塾 都立独自校に強い塾 開成高校合格・筑駒合格・渋幕合格実績 駿台模試全国第1位)🟩一抹の不安❗️は現実(不合格)となる‼️  小さな驚き❗️もまた現実(合格)となる‼️

2026.03.27

🟩一抹の不安❗️は現実(不合格)となる‼️
 小さな驚き❗️もまた現実(合格)となる‼️

 指導していて、つまり、レジュメを通して、子どもたちの脳の中を、IQを知ることができる。レジュメに仕組まれた、リトマス問題は、私に、その子の素の知能を教えてくれる。
 「えっ、できないの」、「えっ、これができたの」と内心に衝撃、いや落胆、あるいは驚嘆が、広がる。これが、本番直前、いや本番6か月前あたりなら、それは、そのまま合否の結果を暗に示唆していることがほとんどだった。つまり、下手な合否予測より、余程正確に合否を告知していた。いや、後から考えて、合格した子と落ちた子との差が見えてくる。形式的には、単純に、正答率の高い子の合格率が高いことは当然として、実質的には、「この一問」というのが、解けたか、解けないか、が、合否の分水嶺となる。こういう問題をリトマス試験紙に準えて、リトマス問題と呼んでいる。
 リトマス問題が多いほど、いいレジュメシリーズになる。「わかりません」というのは、正直、絶望しかない。リトマス問題が、「わからない」というのは、それほど致命的なのである。これを説明しても意味はない。同類の、あるいは、他のリトマス問題でも、結局「わからない」ということになる。だからリトマス問題なのである。ある一定水準の力、というか思考力があるかどうか、ということなのである。だから、もともとそこまでの思考力のない子に如何にわかりやすく説明したとしても、それで理解できたとしても、それで、実力がついたというわけではない。
 誰の力も借りず、解けたこと、解いたことが、重要なのである。だから、個別指導も、家庭教師も、普通は、意味がない。家庭教師が成功するとしたら、もともとのIQの高い子の場合だけである。リトマス問題を家に持ち帰り、家族に教えてもらう、というのは、意味がない。教えてはならない問題なのに、他人に説明してもらっては、リトマス紙にならない。「ヒントだけもらい、後は自分で解きました」という子がよくいるが、ヒントは、ほぼ答えである。また、塾で解けないで、家に持ち帰り、解いて来たというのは、もし正解としたら、それだけで疑わしい。塾で解けよ❗️ということだ。リトマス問題は、私の目の前で解かなければ信用できない。目の前の反応を見なければ、リトマス紙の検認はできない。
 IQの低い子は、正直失望しかない。合格の見通しは「ない」のに親子で合格を目指すというのは、あまりにも酷な話しである。それどころか、基礎学力もつけられるかわからない。正直、受験指導というものが成り立たないのである。本人のアイデンティティが如何に自尊心で糊塗されても、「この一問」が解けない、わからない、のでは、いくら努力しても、どうにもならないのである。本人が、自分のIQで解かない限り、受験の成功は「ない」のだから。
 さて、指導とは、驚きである。わたしの仕組んだ知的罠に、その子のIQがどう対応するのか、いつもワクワクしながら見ている。と言っても入会の時から、だいたい子どもの能力は予測はついている。ワクワクさせるのは、もしかしたらとか、あるいは全く予見できない子の場合である。つまり、逸材を発見する瞬間である。あっ、この子はIQが高い、と直観したときである。えっ、この問題が解けたのか、これである。わたしが、これは面積図を使って解けば簡単だな、と思っていると、なんと普通に、解いている、これ天才じゃないですか、そういうこともありました。この子は、後に筑駒、開成高校に合格することになる。
 レジュメ作りの面白さは、この知的罠を仕掛けるところにある。いとも簡単に騙される子は、篩にかけられる。だから実は日々のレジュメ指導を通して、合否の見通しはわかっている。自分で解けるというのは、実は、自分の思考の壁を穿つ、突き崩すということであり、実質的な意味があるのである。他人に説明を受けて「わかった」というのは、思考の壁はそのままである。
 IQが高ければ、思考の幅は広い。思考の壁も相対的に低い。考えるというのは、自己の閉鎖された、思考を窮屈にする、思考を狭くする、思考を偏狭にするところの壁を穿つ行為をする、という意味があるのである。原理・原則、あるいは定義の説明を受け、そこから組み立てられた問題を解くというとき、わからない、だから説明を受ける、というのでは、思考は一生、そのままである。つまり、思考の壁は、そのままに、狭い、偏狭な、心のはたらきしかない。思考の跡のない、他人から説明ばかり受けて来た「知識」が、ただの暗記の対象として、壁の内側に蓄積されて行く。自ら考えることのなかったゆえの、強固な壁が相変わらず高く聳え立つ。本番では、思考を働かせることもなく、脳に跡を遺した足跡を思い出すことにだけ、頭が使われる。思考を忘れた、悲しい、アホウ鳥。
 実のある力をつけること‼️
 合格というのは、とにかく自分の頭を使い、工夫をして、解くこと、解かなければ、合格しようがない。暗記に頼る勉強、つまり、解説を読んで、説明を聞いて、知識として、頭に記憶として遺すやり方は、問題文も飛ばし読み、よく考えもしないで、覚えていることを、しかも曖昧にしか理解していない知識を的外れに書くことで、解いたという錯覚に陥る。
 自分の頭で、考える、解くにはそれしかないと悟る、問題を何度も読み返し、何か見落とし、勘違いはないか、と考えを何度も検証する、そういうところから、思考の壁というものが、気がついたら、消えていた、ということである。
 誰しも思考の限界、壁というものを持っている。勉強というのは、思考の力で、壁を払拭していく過程の総体である。思考から逃げる者は、自己の、偏狭で、稚拙な脳から逃れることはできない。勉強を続けるというのは、思考の壁をせっせと崩す作業にほかならない。
 思考で切り開くしかないのだ。考えるしか、方法はないのだ。

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