2026.04.01
🟪高校入試の天才❗️竹の会‼️
子どもたちは、気がついたら、合格していた‼️
わたしの指導は、経験と直感で戦っている、そんな気がする。よく大手塾の教材をネットで見かけるが、正直「凄い」と思う
。資本力と機動力にものを言わせて、確かに、凄いテキストを作り上げているなと思う。かつて竹の会に中野の中学から通っていた生徒がいた。その生徒の同級生3人がエナに通っていて、エナの教材を得意げに見せびらかしていた、と報告があった。また早稲アカの生徒も何人かいて、早稲アカの教材をこれも得意げに使っていた、と私に話してくれた。わたしは、羨ましいのかな、と思って、何か言ったと思う。竹の会は、昔から、教育開発という塾教材会社では、有名な会社のものを使っていた。しかも、大手のような網羅性のあるものではなくて、とにかく薄い教材を選んだ。わざと私が選んだものだ。その年度の入試では、なんとエナの子も早稲アカの子も皆落ちて、都立に受かったのは、竹の会の子だけだった。都立戸山が、その年の、その中野の中学の最高の都立だったのだ。その子は、戸山から一橋大学へと進学した。竹の会の生徒はいつもそういうエピソードを残して合格したものだ。
テキストは、何を使ってもいいというわけではないが、いいものは大手塾でなくてもある。しかも、大手塾では、例えば、開成受ける生徒が全員同じテキストを使っているわけだから、その差がつくのは、IQの差ということになる。大手の弱点はここにある。わたしは、竹の会の子の開成高校の受験のとき、市販の参考書、問題集しか使っていない。それで全国一位を取れた。いや、その方が、均一化された大手の受験生をごぼう抜きできるのだ。理科と社会の教材は、都立なら教育開発で十分だし、開成、筑駒なら、市販のもので間に合う。数学だけは、竹の会のレジュメだけだった。もちろん難関校の過去問は利用した。これは大手でなくても普通に手に入る。
今は、河合塾や東進の教材も市販されているから、手に入る。何も困ることはない。
わたしの指導は、生徒を指導して、そこで何が今必要かを判断し、「手を打つ」というやり方だ。いつも生徒を見て、リアルタイムで軌道修正していく。ここは、経験と直感に従う。
竹の会の高校受験生は、いない年もあり、多い年で4人、普通は、一人である。
都立独自校では、よく青山に受かる。竹の会の子は、中3の夏の過去問チェックでも、合格点からはほど遠い。それでも最後は、高得点で合格していく。ここに竹の会の強さがある。最初は、とても合格点に届かない。しかし、「手を打つ」指導を積み重ねて、本番には、見事合格していく。去年の青山合格者は、小3からいた子だが、割合をマスターするのにとても苦労した。要するに、最初は、できない子だったのだ。それが、都立富士を受けて補欠合格も繰上ならず、区立中でさらに伸びていき、早実は、国語だけ合格点に達せず涙を飲んだが、都立青山にはなんとトップ層で合格した。経験と勘(直感)による「手を打つ」指導に、よく食いついて来た。ここがポイントなのだ。解き直しになると、途端にサボり始める子がいるが、IQが追いつかないこと、本来のサボり癖が油断からか止められない。だから、竹の会の指導で大切なのは、勉強するという強い意志なのだ。
大手塾で洗脳された親子というのは、竹の会などに見向きもしないだろう。大手のテキストに魅了され、これを使えば受かると固く信じているから。竹の会の教材を上から目線で見るのだろう。大手信仰というのは、それほど根深い。完全網羅されたテキストを与えられて安心するだけということに気づかない。問題はそんなところにはない。問題は選択にはない。実行にある。しかし、大手の均一化された、大量生産の受験生は、単なるどんぐりの背比べに堕してしまう。その中で抜きん出るのは、もともとIQの高い子だけである。そんなことが、わからないのだ。そこまでのIQということではある。市販の参考書ではダメだと決めてかかる。大手塾のテキストが絶対だという固い信仰。アホくさ❗️ そんなことより、頭を練れ、実行しろ、参考書があることに安心して何もしないのが、大手の子だ。とにかく実行すること、そこから弱点を炙り出すこと、そこから「手を打つ」こと、である。
27年戸山合格の子は、12月の過去問チェックで、英語が時間内に終わらずに、どうしたら時間内に解けるか、私に訴えてきた。もちろんその前に、英文読解の訓練が足りていないことがある。しかし、直前の12月である。わたしは「手を打つ」。まず英文を読むときに、文の頭にスラッシュを入れるよう指導した。これは、問いから、一気にスラッシュを目印に、目的の文を探せるから。それでも時間が足りない。苦肉の策か、問いを読んで、関連部分を読む方法にした。これで時間内に終わらせることはできた。何度かの練習で慣れて来た。合格点を取れるまでになった。
竹の会の「手を打つ」指導は、経験と直感から、危険を予見し、対応する、地味だが確実な方法だ。他塾のように、予め用意されたテキストの何ページから何ページまでという区切りで、授業して、残した問題は自主的には解かせる方式では、ほとんどやり残しとなる。しかも授業で理解できないままの問題も多数出るであろうから、不消化の積み残しが常態となり、できないところはできないままで、手も施されないままになる。本人任せになる可能性が強い。
授業方式の欠陥は、天才しか生き残れないことだ。その天才にしても、同じテキスト、同じ講師による同じ授業だから、差がつくのは、IQの差ということになる。よく天才の伸び悩みというのがあるが、これは、個別指導塾を増やすとか、そういうことでは解決できない。均衡を破るには、「同じ」前提から外れるしかないのだ。勘違いした母親がいるのも、親のIQにして子のIQということか。
竹の会は、必ず合格させて来た。高校入試には強い。親、特に、母親の妨害がなければの話しではある。何かとクレームを言って来る母親は、受験には、成功しない。
と言うか、わたしは、ここぞというときは、必ず合格させてきた。わたしが、必ず合格させる、と決意したとき、必ず合格した。今年の桜修館はそうだった。受検生は3人だけ。去年は一人だけ、その一人が落ちた。だから今年は合格者を出す、そう決意した。ただ状況はよくない。レジュメの進捗も捗々しくない。そこで本当に最低のレジュメだけで戦うことにした。定番の「算数クリア」と「適性標準」だけ。後者は、途中までで時間切れ。算数シリーズは、ギリギリ「その他編」まで。これで打ち切り、解き直し、つまり発酵させることにした。過去問チェックで、一人だけ脈あり。これにかけた。
小学生は、IQもあるが、どこまで開花するか、わからないところがある。中学生だと、IQと不屈の勉強心で決まる。
高校受験は、いつものことながら、箸にも棒にも掛からなかった子をなんとか受験生に仕上げて、合格させるという、ある意味神技をこなして来た。
竹の会は、高校入試の天才❗️ それはそれほど天才でもない子たちがほとんどの中で、合格を勝ち得て来たからです。40年の高校入試の経験が、受験に勝つ、究極の秘訣を悟らせた、と思います。わたしに、「この子は受からせたい」「受からせなければ」と思わせたとき、それは、すなわち合格として必ず結実したのです。なぜか、合格した。いつもこのやり方で合格して来た。だからわたしは合格には何をすればいいのか、知っていた。わたしの打つ手が必ず合格をもたらした。わたしが高校入試の天才と言うのは、真剣になったら、合格をもたらした、だからです。
🟨薄い参考書1冊の価値‼️
参考書の完全性を追求すると、自然厚さがとんでもないものになる。世の中に、完全なものなど「ない」のだから、完全性と言っても、相対的な完全に違いない。
かつての旧司法試験では、今では考えられない、とんでもない基本書が、あたりまえのように、合格者から推奨されていた。極め付けは、我妻榮著「民法講義」であったろうか。総則・担保物権・債権総論・債権各論4冊、債権総論に至っては、700ページはあった。今、考えると、バッカじゃないの、となる。予備校ものも、まとめを提供するはずのものが、自然厚くなり、ミイラ取りがミイラになる感であった。
しかし、当時でも、薄い体系書で合格する者もいたが、奇異として取り上げられる程度で、メジャーにはならなかった。今、考えると、これが正統だったのだが。もちろんわたしの感想ではある。
考えてみると、わたしは、大学受験のとき、各科目を薄い一冊で乗り切ったのであった。当時は、大学受験と司法試験は違うという意識が支配した。司法試験を神棚に乗せて、特別のものとして、扱っていたのだ。これがすべての選択をあやまらせた。
思い返すと、我妻榮の通称「ダットサン民法」や鈴木竹雄の「会社法」は、薄くて、いい本だったと思う。
今、受験生を指導する立場になって、考えるのは、薄い参考書を使った戦略である。
なぜ薄い参考書がいいのか。
①薄いから、やる気になる。
②速く回せるから、何回もやれる。
③迷いがなくなる。
薄い参考書の欠点❓
知識が足りないのではないか、という不安が常につきまとうこと
こういう不安とは尽きないものだ。つまり、終わりがない。
だからどこかで割り切るしかない。これが、完全書なら、逆に、焦点が絞れない、厚すぎて知識が曖昧になる、何回もやれないので茫漠とする。中々終わらない。焦る。全体像が掴めない。あまりにもマイナスが多過ぎる。しかも、完全と言っても完全ではない。世の中に完全などないのだから。完全を追う人は常に不完全性に不安を抱く。
薄い参考書の欠点は、補うことで、カバーできる。というか、最初から不完全とわかっているのは、精神的に楽である。薄い参考書の最大のメリットは、重要論点のみに絞って勉強できることである。
最初から不完全とわかっているから、 不完全だから、思考がはたらく。情報が少ないから思考がはたらく。薄い参考書は、思考が活躍する前提だ。
完全性を追求すると、不安は消えない❗️完全性は終わりがない。いつも不安がつきまとう。だから割り切ったほうがいい。完全なものを求めると、思考が働かない。思考が絶える。工夫も発明も生まれない。発明は、不完全な土壌からしか生まれないからだ。
何もかも満たされた子どもには、やる気など生じない。つまり、すべて満たされた環境というのは、人間の「考える」芽をすべて摘み取るのだ。親がなにもかも手配して、先々を心配して、先回りして整える、というの、見事に子どもの能力を無力化する。子どもに、贅沢をさせる親は、子どもをろくなものにしないであろう。何もかも与えられて、殿様みたいな育て方をして、子どもがどうなるか。社会は、殿様では、生きていけない。
こうして、完全というのは、人間にとって、毒である。毒には、人を魅きつける魔力がある。人は、毒にこそ本能的に引き寄せられる。毒は喰らって見なければ毒とはわかない。喰らったら、それで終わり。
甘やかし、過保護は、毒だ。毒も少量なら薬になる。しかし、毎日毒を与えてどうするのか。今の親は完全飼育で子どもを飼い殺しにしている。
不完全な親のほうが、子どもが抜きん出るのも、理屈が通る。






