2026.04.14
🟨高校数学指導のポリシー
注 この原稿は、久々に、高校数学の指導をすることになり、書きました。
高校では、数学で挫折する者が後を絶たない。さて、どういうことなのだろうか。
わたしの経験から言えるのは、まず、高校数学は、高校入試の数学とは、別物であること、しかも、中学数学と高校数学では、質が違う、高校数学は難解である。高校入試の数学とは、違うのは、数学の理論を問題にするからである。仮説と論証の世界である。数学の問題を解くとは、仮説(定義)から導かれる定理・公式、、つまりツールを適材適所で、どこで当てはめるかが、問われる。
定義から、定理、公式を導けること、定理、公式の本質を理解して、問題に当てはめること、これである。
進学校では、教科書は、スキップされる。いきなり大学入試問題から作られたプリント、問題集を丸投げされる。だから落ちこぼれは必然的に出る。高校数学というものが、定理、公式を縦横無尽に使いこなすこと、それは、問題を見て、ここでは、この公式を使うと判然としないから、ここが難しいのだ。高校数学とは、ツールを問題ごとに使って、解決していく、そういうものである。
さて、高校数学のこの性質が、わかっていないから、大量のプリント、問題集を与えられて、わからない、難しいと放棄する人が続出することになるのである。
高校入試の数学は、本来の数学ではない。それは限られた、特殊な世界である。二次関数と言っても、頂点は、原点に固定されたものしか扱わない。それに、相似、三平方の定理を絡めて難しく見せかける。あるいは円と絡めて、相似を扱う、その程度である。高校数学とは、異質なものである。だから高校入試の数学ができても、そのまま高校数学もマスターできるとは、限らないのだ。高校数学では、常に、最初の出発点、つまり、定義、仮説から考えなければならないであろう。本来の定義が問題解決の糸口になる。ツールも定義(仮説)から導かれるものである。高校数学は、ツールについての理解が重要である。
普段の勉強は、問題集を使って、ツールの使い方を学ぶのが、ベストである。数研出版の問題集は、その用途に耐えるものである。難関校をめざしてがんばってきた生徒が合格後もトップでいせれるのは、難関受験のための勉強を通して「工夫」する経験を積んできたことによる。つまり、「工夫」という因数で、算数も高校入試数学も、高校数学も括ることができる。「工夫」こそ実力の正体である。
こうして、高校数学指導のレジュメは、高校入試数学とは、自ずから異なる。こと大学入試に関しては、ツールの習得、問題演習を通してのツールの使い方を学ぶ、ことがメインとなろう。通常は、問題を見ただけで、どのツールが有効なのか、わからないのが、普通である。ツールを使えるように、「工夫」を要することも多い。してみると、算数で「工夫」が大切であったのと変わらない。高校入試問題の場合でも、「工夫」が必要なのは、変わらないわけで、そうなると、竹の会で、小学時代から「工夫」をすることを学んだ経験は、かなり大きな財産だということがわかる。
思考とは、「工夫」することと同じというのは、思考をより具体的に述べたものと言えよう。
塾とは、単に、学科を教えるところとは、考えていない。理想は、子どもが、自分で解けることである。自分で解くという行為は、単に解けたということでなく、自分の思考の成功体験であり、自信と思考深化を確実に増加させている。そうなると、具体的な問題を教える、ということではなく、自分で問題が解ける能力をつけることが、目的でなければならない。
自分で解けない、「わからない」という子は、受験、受検には「落ちる」ことになっている。
こうして、塾は、思考力、「工夫」する能力を育てることが、目的でなければ意味がない、はずである。受検で来ても、竹の会では、まず、思考できるように指導する。レジュメはそのための手段であり、レジュメを家で親が教えるということは想定していない。他の塾と同じと決めてかかって、教える親、教えることを禁止されることに文句を言う親がいるけど、他塾のように、テキストを進めて、授業していく、「教える」のを目的としていない、思考力をつける、ことを目的としているのだから、教えた答えが合ってたら終わり、次というわけではない。この問題を考えることを通して、工夫を学び、思考の経験を重なることが目的であり、勘違いした親が、塾なら当然すべて同じと決めてかかって、文句を言うのには閉口して敵わない。そういう親は塾ならどこも同じという観念が固定されていて、竹の会を理解するのは、不可能のようだ。
竹の会は、学科を教える塾ではなく、学科はあくまでも手段であり、学科を手段として、「思考を育てる」塾である。他塾は、思考がつくのは、学科を教えた副産物に過ぎないが、竹の会は、思考そのものが、指導の対象、目的である。
竹の会からの合格は、その結果に過ぎない。思考力がついた、という前提から、合格がもたらされている、に過ぎない。落ちたのは、思考力が足りなかったことは間違いないが、その原因は、IQの問題から已むを得ない場合、IQに問題はないが、習い事、稽古事、スポーツ、吹奏楽、クラブ活動、レジャー、娯楽優先など勉強を蔑ろにした結果だから仕方ない場合である。老婆心ながら、勉強ファーストでない家庭が受検に成功することはほとんどない。どんなに優秀な子であっても、勉強そっちのけで、好きなことをやっていれば、奈落の底に落ちる。
塾一般の観念を普遍的なものと疑わない人たちには、竹の会は理解不能だろう。だから「理解できない」と言い、何かと理由を求める、クレームを言う親が後を絶たない。
「教える」塾に、振り替えを要求する親が、竹の会に同じことをやるのも同じだ。指導というのは、半年、一年を見て、捉えている。指導の振り替えという観念はない。今の指導は、半年後の効果を見据えている。だからもはや退塾する人に、指導そのものが成り立たない。今の指導が、1か月先を見ている。来月いないのなら、今の指導は意味がない。コマを買っているという観念から離れられない親は、最後のコマまで使い切らないと損をしたという感覚なのであろう。巷の塾観から離れられない親ばかりだ。思考というのは、何か月単位の仕事である。一回振り替えとったから、それで思考がどうのという話しではないのだ。
何も言わずに、何か月、いや一年、二年経って、突然、目覚める子がいるのが竹の会なのだ。思考を育てるというのは、そういう長期的な仕事なのだ。過去、何かとクレームを言って来た親は、何かと指導の理由を求めて来るのだが、学科を「教えてもらう」という意識がクレームとなる。指導、思考を育てるとは、学科を教える、は、二次的問題として、如何にしたら思考を引き出せるか、こそを第一義に、考えるのである。旧来の、塾とはこういうものだ、という固定観念を持ち出して、竹の会にクレームを言われるのも、剣呑な話しだ。竹の会は、思考をつくる、そこから自力で、問題を解ける子どもに仕上げる、目指すところが違うのだ。旧来の塾とみなす親ほど、「損する」観念で動く。教育を損得観念で考える親が多いのだ。合格した子たちを見てみると、クレーム、注文というのが、一切なかった。過去の竹の会の合格者の親に限って、指導に関する注文はない。一切お任せであった。ただし、唯一不安の訴えというのがあった。ある都立中学合格者の親は、サピックスの模試を受けさせて、全く点が取れず、不安を訴えて来たことがある。サピックスの適性検査試験模試というのがあるらしい。それで問題を見せてもらって、呆れた。なんだ、これは客観試験、つまり、中学受験の問題じゃないか、と。どこが適性対策模試なのか、さっぱりわらない。これは訓練して来た者でなければ解けないだろ。竹の会は、偏差値試験対策をやって来たわけではない。理科も社会も都立中学では、偏差値試験ではない。思考型である。わたしは、無視してくれと一笑に付したものだ。時々不安になった親が暴走する。その子は、早稲田進学会の模試では、トップレヘルの成績を取っていたのだから、これを私立受験のトップと比較するのは、親の暴走である。これが唯一の例外かもしれない。合格する子の親はどこまでも寡黙である。






