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現代受験論(桜修館に強い塾 都立独自校に強い塾 開成高校合格・筑駒合格・渋幕合格実績 駿台模試全国第1位)🟪知恵をはたらかせることができるか‼️

2026.05.04

🟪知恵をはたらかせることができるか‼️

  IQとは、知恵をはたらかせ、工夫をすることが、できるか、という話しである。
 理解できるか、伸びるか、という懸念は、IQ次第である。IQがないというのは、人間社会において圧倒的に不利なハンディである。学校社会というのは、暗黙にIQによる序列化を認めている。よく、財務官僚が、全国模試1番を誇らしげに語るのは、自分はIQが高いということによりマウントを取るときに使われるアイテムである。そういえば、かつての高等文官司法科試験では、高等文官試験1番かどうかが、教授が如何に知能が高いか、のマウントの根拠とされた。
 IQが高い者は、高い学歴を手に入れ、高収入の職を得る仕組みが、内在的に制度化されているのが、現代社会である。
 人間は平等である。大切なのは、心である。そうですね。しかし、現実は、生まれながらのIQで、未来の貧富が決まる。難関校に合格した者は、次の未来が、道が、目の前に開かれる。本人が、努力さえすれば、道はさらに開ける。
 人間は、もともと生存競争の中に放り込まれて、生きるために、戦うように作られている。人間は生まれながらにして平等であると論陣を張って見ても、人間が生きて行くのは、個人の才覚とされる。生存競争、つまり、人間は競争して生き抜くしかないのだ。世の中のパイは限られている。平等に行き渡ることは物理的に無理なのである。だから、パイを求めて競争するしか、生きる道はない。多くの親は、欺瞞に満ちた、見せかけの甘い社会の中で、自分の子を競争とは無縁の、過保護というビニールシートで覆う。社会が競争だという前提の行動ではある。しかし、一生親が保護者として振る舞うことは不可能であるから、子はいずれ社会の荒波に放り出され、潰れることになる。
 習い事、稽古事、部活(サッカー、吹奏楽など)をやることが、競争から脱落することだ、ということから目を逸らし、区立中学が終わる頃、低偏差値の高校に行くことになるのが、その選択のなれの果てになる、ということは、これほど明快な答えはない。わたしは、40年、現実にその過程を目撃して来たのだから。
 IQのない者は、競争から脱落する可能性は高い。親の七光、親ガチャ当たりなど、例外はあるけれど。
 竹の会には、救いようのない子たちを託されて、葛藤して来た歴史がある。発達障害、自閉症、オール1、180人中ビリから1番、2番、そんなのばかり経験した。いや、それでも高校受験はどこかに入れるものだ。これも貴重な経験だった。指導道を極めるには、ありとあらゆる経験をすることだ。カネをかけない、都立一択の家庭という経済層が、東京には、一定数いるのだ、ということもわかって来た。かつての22グループの都立に、そういう家庭の子をずいぶん送り込んだ。ちょっと内申がよければ、21グループの広尾、目黒になったものだ。当時から、21グループは、戸山>青山>駒場=新宿 というヒエラルキーを形成していた。戸山はなぜか人気がなく、駒場、新宿が人気だった。ちょうどそのくらの知能の子たちの憧れだったのか。平成20年までは、竹の会では、青山、駒場、新宿の合格が多い。学校でトップではないが、優等生という子、しかも大手で受験までは考えない、そういう子たちが多かった。難関私立を受けるだけの、経済的余裕がある者は、河合塾や代ゼミに行った。竹の会でも、難関私立志望者は、一人いるかいない程度。いればどうしても個別指導になった。
 当時は、経済的に恵まれた家庭のみが、難関私立をめざした。ほとんどの家庭は当然のように都立一択であった。もちろん、日大系列、国学院久我山などの私立を第一志望にする家庭もあった。都立しか出せない家庭とは違うが、大手に通って難関校を目指す層とも違った。
 算数も数学も知恵の学問であり、工夫に満ちた解法は、IQの高い者を刺激した。
 IQのない者には、算数も数学も絶望的な科目であった。自ら工夫することのできない者には、全く絶望的ない科目である。
 わたしは、工夫と知恵を教えて来た。算数、数学を通して、工夫と知恵を教える、これが開設以来の竹の会の精神であった。開設からたちまち数学で有名になってしまったが、近隣の代々木中学、上原中学の、中3の数学5を竹の会だけで、ほぼ独占したことがあった。そのことが、両中学での竹の会の知名度を上げたことは確かであった。代々木中学の数学教師が、「竹の会の先生はどう言ってるの」と言ったなどと生徒がいちいち報告して来たものだ。
 筑駒、桐朋高校などから高校生が門を叩くようになった。有名進学塾の秀才もよく来た。
 竹の会の数学とは、どんなものだったのか、
 源泉を辿れば、わたしの大学入試の受験勉強に行き着く。その時、取った方法が、今の竹の会の数学指導の原点となっている。そして、わたしの母校(当時大分県の御三家と言われた別府鶴見丘高校)のプリント授業がわたしには忘れられなかった。高校3年生のとき、数学の先生から配られた8枚のプリント、わたしは、これを10回以上繰り返し、定期テストで、9割近く取った。あの試験は、赤点なら国立コースを外される試験だった。わたしは、高校で少なくとも国立大学の受験科目だけは一通り授業を受けていたかった。
 プリントをやる快感を知った。
 当時のプリントは今の竹の会のレジュメの原点である。
 プリントは、本当に重要な問題を集めていた。プリントだけでいい。これがプリントのプリントたる所以だ。重要な、必要なことはこのプリントに載っていることだけ、これがプリントの生命である。
 竹の会のレジュメの精神はここにある。
 わたしは、レジュメに、知恵と工夫を載せて、伝えたかった。わたしのレジュメを読めば、たちどころにわかる。そういうレジュメにこだわった。
 竹の会のレジュメで伸びないのなら、それは、もはやその器ではない、ということだ。
 「わからない」というのは、IQが原因なら、もはや手立てはない。
 受験というのは、マラソンと同じだ。ただし、スタート時点に制限はない。だから早くスタートした者が有利である。特別足の速い子(IQの高い子)なら、挽回できる可能性はある。しかし、それもある程度までだ。マラソンというのは、先頭集団を追い越すのは、不可能なレースだ。最初から全速力で走り続ける人には、時間が味方になる。もちろん途中脱落する人間はいる。続けるのは、強い意思力がいるからだ。IQが低ければ、その意思力は弱い。受験レースは、遅れて参加した者には、とても勝ち目はないのは、誰でもわかるはずだ。老婆心ながら、学校の授業だけの成績優等生は、スタートラインにも立っていない。内申がいいと親も本人も誤解しがちだが、スタートを切っていないことを悟らない愚かさの代償は中3になって払うことになる。
 学問とは、教育とは、学科そのものではなく、学科を機縁として、知恵と工夫を学ぶ、教えることである。竹の会の教育精神は、開設当初から、わたしの高校時代からの葛藤の反映と言える。IQの高い子なら、竹の会の、わたしの、精神を悟ることもあろうか。悟るのは成功したときなのかもしれないが。

 この問題はどう工夫したら解けるのか、どう知恵を働かせたら見えてくるのか、竹の会の指導の精神はそう子どもたちに働きかけて尽きない。小学生に「高齢化社会」で何が困る❓と尋ねる。高齢化社会❓そんな面倒な、抽象概念必要ないだろ‼️ じいさん、ばあさんだらけになったらどうなるの❓これでいい。それでも子どもはキョトンとしている。いや何かとカネかかるよね、病院はじじ、ばばだらけ。農家やってるのジジ、ババでしょ。どうなるの? 国もジジババにカネ払うでしょ。それ足りなくならないの? てか、ジジババって、カネ使わないで、タンスに貯め込むでしょ。世の中にカネが回らない、流通しないよね。これ景気が冷えるよね。こんな感じかな。抽象概念って、思考停止するんだよね。子どもの脳の活性化というのは、指導も工夫なんだよね。実は、子どもって、抽象化が苦手なんだよ。国語の語彙なんて、抽象化そのものだから、国語が苦手という子は、ここのところで、躓いているわけだ。

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