2025.10.25
🟦高校は数学で落ちこぼれる‼️
内申もいい、高得点で合格した高校なのに、落ちこぼれるのは、なぜ❓
わたしの経験から、入学後誤った判断、行動は、後になってわかったことばかり。まず、部活は、浪人確定である。一日の勉強時間は、受験のときと同レベル以上である。勉強しない日が少しでもあれば、落ちこぼれ確定である。高校の勉強は、専門性が高い。英語、数学、国語、化学、物理、地学、生物、日本史、世界史、人文地理、政治経済、倫理、どれ一つ取っても、専門性が高く、生半可な時間で極めることは不可能である。それにかかりきりになる、没頭しなければとてもものにできない。それがわかっていれば、一秒でも時間は無駄にはできないはずである。
高校は、入学して一年以内に、大半が、数学で落ちこぼれる。また、英語の教科書は、進出単語量が半端ではない。定期テストは範囲があるけれど、それでも覚えなければならない単語の量は膨大である。文法にしてもマスターするには分厚い文法書と問題集を何回か回すにはさらなる時間を要する。英文読解に取り組むときは、新たに難解とされる英文解釈書を読むことになる。なんと時間勝負なことか。のんびりバスケや野球なんてやっていて、まともな大学に行けるはずもない。
高校の勉強において、救世主は、紛れもなく参考書である。わたしも、苦労した数学では、参考書に救われた。参考書の言語が自分に合うかどうかが重要である。著者によって、同じ理論を言語によって説明するにしても、適切な言語化ができているかどうかで、わかる・わからないが、分かれる。日本語の下手な、語彙が未熟な著者、頭の悪い著者の参考書は、百害しかない。たとえ、評判のいい、多くの受験生が使っていたとしても、自分に合わなければ、無駄である。わたしは、チャート式数学(当時は赤チャートしかなかった)が合わなかった。学校では定番の参考書であったが。数研出版の問題集はよく利用したが、数学の実力がつくようには思えなかった。わたしを救ってくれたのは、研数書院の「技法数学IIB」であった。目から鱗が取れるというが、まさにその通りであった。次に、わたしに旧帝大レベルの数学力をつけてくれたのは、螢雪時代のZ会の通販で買った、薄い問題&詳細解が1ページに印刷された、200問ほどの問題集だった。わたしは、独学で大学受験した。だからわたしには参考書しかなかった。山川の日本史教科書は、当時は、あれ一冊で東大に受かると言われていた。わたしはどうも教科書を暗記用に使うのが苦手で、暗記用として「山川用語集」を読み込んだ。わたしの大学受験は、参考書探しに尽きた。わたしの脳に響く参考書、いや言語化を探した。
わたしの高校は、県下の御三家と言われ進学校であった。そこで同級生が、数学でボロボロ落ちていくのを目の当たりにしてきた。中学では学年2番だったとか、そういうのがゴロゴロいた。しかし、そういう連中が、怠惰な生活が一番の原因としても、数学でどんどん落ちていった。そういう同級生たちは、法政とか、明治とか、私立に流れていった。進学校は、国立に受かってなんぼのところがある。私立を受けるというのは、当時は落ちこぼれと見られた。
なぜ、数学なのか。国立は、数学ができてなんぼだからである。
わたしは、わたし流のやり方で数学をマスターした。高校数学というのは、テーマごとに、つまずく難所がある。その難所を誰かが、的確な言語化で説明してくれたらだれも悩まない。学校の先生は、説明が一番下手くそだ。また質問しなければならないことが100を下らないから、そのすべてを先生に質問する、説明してもらうのは不可能だ。わたしは、竹の会で、わたしの経験そのままに、数学の難所をその都度コメントしていった。例えば、ベクトルなら、定義、成分等々生徒が詰まるところを手短にコメントしていった。ほんの簡単なところの意味がわからない、それが高校数学である。高校数学は、難所の簡単な説明だけで、簡単に乗り越えられるのだ。落ちこぼれる人は、そのコメントが手に入れられないから、脱落する、そんな簡単なことだ。高校というところは、高校数学、化学などは、ほんのちょっとした、小さな、初歩的疑問が躓きの一歩となる。そこからあっという間に挫折する。塾は、いや竹の会は、そういう場合の、道案内人として、高校生を案内してきた。やがて案内は不要となる日まで。
実に、多くの高校生が、勉強の意欲もあり努力もしているのに、ほんの小さな躓きから奈落の底へ落ちていく、これが高校生の本当の姿です。






