2025.11.11
🟦人の断固たる決意は神をも味方につける‼️(「バーフ・バリー2」)
✴️詩的で荘厳な英訳
When a man’s will is unyielding, even the heavens bend to his cause(人の意志が不屈であるとき、天すらその大義に屈する)
✴️別の詩的英訳
The steadfast heart moves even the will of God.
(揺るがぬ心は、神の意志すらも動かす)
An unbreakable resolve makes even the divine take his side.
(砕けぬ決意は、神聖なるものさえも味方につける)
最後の英文は、第五形式ですね。
さて、本題に入ります。
合格者には、決意があり、不合格者には、それがない。合格への強い決意、断固たる決意が、神をも味方につける。そこには、不屈の精神、どのような障害にも負けない強かな意志、燃えたぎる熱情が、垣間見える。現実の、容赦のない、非情とも思える事実でさえも、不屈の精神を制圧することはできない。断固たる決意が不可能を可能にする。
神は、頼るものではない。庇護をお願いするものでもない。世の中の、あたりまえ(理)を支配する神(自然の掟)に、わたしは、そのあたりまえを阻止する、断固たる意志を示す。
断固たる決意は、岩をも貫く。
強い決意は、寝ても覚めても決意を新たにすることである。
わたしが、大学に合格した年、わたしは、実質5か月しか勉強していない。8月までは、東京でトラックの運転をしていた。大学に行きたい、そう決意した、わたしは、8月で仕事をやめて、9月神田の街の本屋街で、受験のための参考書を買い、郷里の九州の別府に帰った。両親は、転勤で赴任し、実家には、祖母と弟がいた。わたしは、実家の三畳間に籠り、勉強を始めた。朝9時から始めて、祖母の作ってくれる昼食を取り、すぐに5時まで勉強した。6時には、近くの温泉に行った。既にはたらいていた弟と二人で毎日温泉に行った。秋も深まる頃、夜7時でも星が空に輝いていた。別府湾の彼方は東京。わたしはまだ見ぬ、未来の妻となる人があの星の下にいるのか、と夢見ていた。
夕食を取ると、また勉強した。朝7時には起きた。毎日がその繰り返しだった。
11月に、全県模試を受けてみた。よく覚えていないが30000人ほど受けていたか、わたしは、27000番ほどだったか、とにかく酷い成績だった。受験3か月前の話である。成績表は両親にはとても見せられなかった。模試を受けたのはこれ1回だけだった。
わたしは気にしないで、「必ず受かる」「旧帝大に入る」と強い決意で、勉強した。まだ自分のノルマはほとんど終わっていなかったからだ、割り切った。
文机の左側に、参考書を置き、一日のノルマを果たしたら、右側におく。すべて右に移動するまでやる。
英語は、赤尾の豆単、原仙作の英文標準問題精講、数学は、Z会の問題集のみ、国語は、新釈現代文、古文研究法、漢文、古語2000、日本史は、山川用語集のみ、世界史は、山川用語集のみ、生物は、数研の問題集のみ、であった。これを一日のノルマ分やる。わたしは、これをひたすら繰り返した。20回〜50回と繰り返した。必ず「九州大学法学部に受かる」と強い決意でわたしは没頭した。
九州大学法学部の入試は、3月3日、4日、5日の3日間にわたって、実施された。わたしは、郷里の大分県別府市から福岡市に前日に行き、旅館で備えた。当日は、朝から雪が積もり、既に止んではいたが、路面電車で試験会場の六本松にある九大教養学部に向かったのを覚えている。
数学は3日か、4日か覚えていない。苦手の数学は、100分の試験時間ギリギリまで格闘した。うまい方法が思いつかずに、代入したら恐ろしい式になり、とにかく残り時間がないのを気にしながら、計算していったら、0になり、証明ができた、のを覚えている。順列・組合せは、2問に分かれ、結局1問は出来なかった。できなかったのは、この1問だけで、他の問題は、とにかく解き切った。数学だけ100点満点で、他の科目は、国語、英語が120点、日本史などは60点である。数学は90点取れた。他の合格者が普通は50点取れれば合格らしいから、わたしとしては、苦手の数学を遂に克服したという充実感に満たされた。国語で覚えているのは、和歌が8首出て、それぞれが、なんという和歌集にあるのか、を問う問題。わかるわけがない。代表的な知ってる和歌集をヤマカンで書いた。この問題ができる人はいたのだろうか、これで国語の合格点が下がるのはうれしかった。この問題は、国語の勉強をする時間がなかった、わたしには、よかった。英語は、長文読解と英作だけ。大量の英文が出され、下線部を訳す、これだけだった。小問もなく、ただひたすら訳す問題。わからない単語はなかったので、ぎこちない直訳で埋めた。ビックリしたのは、日本史と世界史、それぞれ60点満点なのだが、1問1点 60問の記述問題だけ。記号選択はない。山川用語集の丸暗記が功を奏した。ただ世界史で、デカン高原の地図が出たのは、困った。わたしは過去問を一度も解いたことがなかったので、ビックリしたのだ。多くの受験生は、志望校の過去問を、やると思う。しかし、わたしは、その時間がもったいなかった。そんな時間があればinputに時間をかける。過去問は必須ではない。まず力を水準に持っていくことだ。生物は、本気でやれば、あの教科書の厚さから、いくら時間がかかるかわからない。だからわたしはやらなかった。やったのは薄い数研出版の問題集、それも例題を読んだだけ。細胞分裂の図をかかせる問題、遺伝の計算問題と苦闘したのを覚えている。60点満点の30点は取れただろうか。
発表は、3月15日、その風景は、西日本全域でテレビ中継されるという大掛かりなものだった。もちろん九大だけの話し。九州では、九大は別格であった。わたしも幼い頃から、いかに九大が難しいところか、よく耳にしてきた。中3のとき、クラスで「九大に行きたい」と言ったら、わたしをライバル視していた中の一人が、「阿部、お前は受からない」と言われたことがあった。そいつは、県立の工業高校に行き、鉄道員になった。高校のときの同級生が、いろいろ活躍していたのに、大学に行かないで、郵便局に勤め始めたときも、ビックリした。わたしは、高校のときは、よく学校を休んだ。落ちこぼれだ。入学のときは、上位合格、高校2年のときの模試が良かったので、国立コースに残れた。わたしはいつか必ず復活するという意志だけは持っていた。だから最低国立コースにだけは残り、受験に必要な科目の授業だけは受けていたかった。高校の時の、わたしをダメにしたのは、数学と英語だった。数学も英語もとにかく異常に進度が速かった。数学は教科書は適当にやって、後はプリントばかりやらされた。プリントは大学入試問題から作られていた。英語のリーダーは授業でやってくれたと思う。しかし、渡される参考書や問題集が結局メインとされていた。古文も有名な先生がいて、かなりやった。高校というところは、毎日7時間、休むことなく勉強するところだ、とわかったのは、落ちこぼれて、知ったことだ。わたしは柔道やったり、空手やったり、と時間を、無駄にした。勉強しない、その蓄積が、どうにもならない段階に来たとき、破綻するのだ。
ずいぶんと回り道をしてようやくわかった。中学時代秀才と言われた頃は、一日7時間やっていた。わたしは、「中学時代の秀才がこのままでいいのか」といつも自分に問いかけた。「借りは返す」と強く思い続けた。英語の単語を10000語覚え、数学を得意にする、それがわたしの復讐の第一歩だった。復讐とは、わたしをあまりにも無知で素朴な環境に貶めていた闇に対してだ。高校1年、あまりにも純朴で何も知らなかった。甘かった。高校の何たるかを誰も教えてくれなかった。入学した時、上位にあったことは知らされた。しかし、級友たちは、みななんのためにこの高校に来たか自覚していた。わたしだけが何も悟らなかった。竹の会で、私はよく「勉強するなら、時間を無駄にするな❗️」と子どもたちにはよく話すのは、わたしの苦い過去が無意識にそうさせているのだろうと思う。部活とか、習い事とか、わたしが拒否反応を示すのは、高校の時の苦い記憶があるからとは思う。
そしてわたしの経験は、模試なんか気にしない❗️ 過去問なんかやらなくてもいい❗️ 断固たる決意が状況を変えてくれる、その信念が揺るぎない真実だと確信させるに足るものだと思っている。わたしが「日比谷に行きたい」「開成に行きたい」という子を見るとき、その決意のほどを見るのは、わたしの、苦悩に満ちた経験からだろう。そしてわたしはその決意が断固たるものかどうかを、見届けるのである。






