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現代受験論🟩意味ありげ‼️なことには、必ず隠された意味がある❗️

2026.09.01

🟩意味ありげ‼️なことには、必ず隠された意味がある❗️

 意味ありげとは、現代文の選択肢問題の選択肢の中に、意味ありげな選択肢がある、という意味で、「例の方法」の著者有坂誠人が、使ったものと記憶している。意味ありげないところが、怪しい、正解を示唆する、というのである。要するに、不自然なところがあるというのだ。その不自然さは、選択肢を作った出題者の心理の現れというわけである。有坂は、製作者は、まず正解肢を作る。それから誤りの肢を作っていく。誤りの肢を作るに際しては、正解肢を見ながら作るであろう。だからどうしても誤りの肢は、正解肢に似てくる。正解肢と対極にある選択肢がかつては多かった。しかし、これだとすぐに2つに絞られてしまう。そのせいか、最近では正解肢とあからさまな対極にある肢は採用されなくなった。似せた肢というのは多い。どれが本家か❓似せた肢は、必ず正解肢を参考に、見ながら作られている。そこが弱みだ。最近は、出題者も考えていて、正解肢ともどき肢が判断が難しい。要するに、2つに絞られるが、どちらが正解か、判断ができない体裁になっているのだ。
 なぜか。
 最近の現代文の傾向
 語られていないことを語る選択肢❗️
 本文で語られていないことを、それは本文を元にした推量、憶測など、選択肢に入れる技術が進んだことによる。出題の技術が進化したのだ。本文で語られているとしても、選択肢が本文のままに出されることはない。中学受験、高校受験ならまだそういう親切さはあるが、大学入試になると、そういう親切さはない。難関大学は並み居る秀才の中から選抜しなければならないのだから、そういう敵に塩を贈ることはない。本文の表現を巧みに言い換えて選択肢とするのだ。つまり、意味が同じということだ。ここでも幅広い語彙力がものを言う場面があるわけだ。昨今の正解肢は、本文そのままではなく、本文の内容において、主旨が同じという選択肢を正解肢とするようになった。こうなると、語彙力が、大きくものをいうことになる。現代文の勉強は、すなわち語彙の勉強となる。もちろん清水幾太郎のような名文を読むことも大切なことである。それは読む力を涵養する勉強と言える。
 さて、現代文の勉強には、語彙と読む力の涵養が大切というところまでは明らかである。そこで表題の「意味ありげ」というのは、それでも意味を持つのか、である。
 語られていないことを書くから意味ありげに見えるのだ。意味ありげとは、要するに、文脈から不自然さがあるということである。この不自然さというのは、なにも現代文に限ったことではない。日常の生活においても、多々あることである。何かおかしい、というアレである。後から少しひっかかる、気になる、そう懸念が残る、それである。意味ありげなことには理由がある。単なる杞憂には終わらない、何かがある。人は、そういう懸念、意味ありげをスルーしがちである。後から後悔するとき、そういえばと思い当たる節がある。
 意味ありげは、通り過ぎてはいなかったのである。立ち止まって確認しなければならなかった。私たちは、立ち止まることを面倒くさがるところがある。単なる思い過ごしで終わらない、もしかしたら命取りになるかもしれないことを私たちは面倒くさいという理由で顧みない。
 思い過ごしではない、正当な疑念である。
 だから、現代文において、意味ありげなのは、本文には、語られていないから、えっ、そこまで❓という意外感があり、それが、アリの一穴となるほどのことがある。
 どう意味ありげなのか。
 普通ならこうあるべきなのに、どうして普通でないのか、
 本来ならこうあるべきなのに、どうして本来ではないのか、
 わざわざこういうことを言うのはなぜか、普通はわざわざ言わないだろ、 
 特に、そんなふうに断るのは、なぜか。何か理由があるのか。
 そこから意味ありげの意味ありげたる所以を探ることになる。意味ありげなのがなぜ意味ありげなのかは、普通なら、本来なら、と問うことが鍵となる。
 ドラマ刑事コロンボでは、コロンボが、普通ではない、ありえない、ちょっとしたことを気にかけ、そこから事件を解明していく過程が描かれている。これは、テレビドラマ「古畑任三郎」でも同じ構造である。
 意味ありげの感覚を磨くこと‼️
 実は単なる思い過ごしであったなら、それは、意味ありげの感覚が鈍い、鈍かったということである。普段から、普通を鋭敏に認識しておくことが、意味ありげのセンサーを正確なシグナルにする。と言うか、普通感覚を磨け❗️という話しである。普通ならこうある、普通ならこうあるはず、普通ならこうあるべき、である。
 そうなると、普通を極めることこそ肝要ということになる。わたしたちは、普通を当たり前、当然のことと、無意識的に思い込んでいるから、普通が普通であると特に意識しない。しかし、よくよく考えてみると、普通を意識することが、突如として現れる、想定外の意味ありげを際立たせることになるのではないか。
 先日の、千葉の線状降水帯による災害は、線状降水帯というものがどれほど危険なものなのかの普通感覚が欠落していた。いや欠落していたのは自分のことである。家族が、電車に乗り途中蘇我で電車が立ち往生した。結局翌日まで電車で夜を越すことになった。連休はバスが混むので、電車が確実との予想が見事に裏目に出た。普通の判断をしたつもりが、普通ではなかった。線状降水帯というものが、台風並みに危険なものだという、普通感覚が欠落していた。普通とは何か、これは不断に検証しなければならないことである、わたしたちは、普通を常に更新していかなければならないのだ。今、自分のした判断が、普通なのか、いつも問い直さなければならない。普通を無意識にやり過ごすから、意味ありげに無頓着になる。普通は、意味ありげを浮き彫りにさせる、魔法の言葉であり、普通感覚を身につけることが、すなわち意味ありげセンサーを鋭敏にすることになる。
 普通なら人はこうするだろう。しかし、特に、そうしなかった、いやこういう行動をとったのには何か特別の理由がある筈だ、という意識過程をいつも持ち続けることである。

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