2025.09.20
🟦問いの研究‼️
一般的に問うのか❗️ 具体的に問うのか❗️ さらに工夫して問うのか❗️ 工夫とは、具体的な条件を附款として付けることである。
ここでは、観察という概念について、述べている。最近の著作には、観察について述べたものはほとんど見当たらない。1997年には、観察について述べた本があったが、内容はがっかりであった。心の状態を「言語化」するという視点から書かれた著作が最近あった。言語論的転回について理解を深めるために探していたら「ことばの観察」に出会った。言語化の本だが、言語化する前の心の状態が観察の対象である。論点は違うところにあった。その本の中で、どうもネタ本が短歌の随筆のようだと知れた。そこでその原典を探してあてて、手に入れた。観察をもっとも尖鋭にするのは、短歌、歌人なのではないか、と悟った。そこで、観察の研究の教科書として、「短歌の友人」を時間をかけて読むこととした。
なぜ観察か。わたしは、実は、今国語読解についての本を、書くために、研究している。そこで、読解とは、実は、観察なのではないか、と最近思うようになった。読解については、予備校本がやたら出ている。そこでは、正攻法からテクニックを駆使したものまで、諸子百家状態で、受験生を混乱させるに十分な情報氾濫状況である。
読解法と言って、あれこれと予め指示するのは、却って読解を阻害するのではないか、そもそも読解法(という物語)などを考えながら読むこと自体、素直な読み取りの邪魔になるのではないか。集中を阻害することこの上ない。文章を読むとき、私たちは、ああしてはいけない、こうしなければならない、などと物語を持ち込むから、文章をありのままに読めないのではないか。
この辺のところは、「物語化批判の哲学」が参考になる。
そこで思い付いたのが、「観察」である。私たちが、読解に失敗するのは、語彙の定義を正確に、意識しないことが大きいのではないか。
わたしは、国語読解の本質を語彙の意義(定義)の正確な反芻にある、と考える。普段の私たちの態度が、言葉を「曖昧」なままに、まぁ、だいたいこんなもんだろう、と片付けて、とりあえずそれで済ませて、結局そのままにする、そういう姿勢にあったことは否めない。まず国語辞典を引くべきである。その上で、何故その定義なのか、考えてみる、ことである。わたしがいいと思うのは、文章の中で、文脈を頼りに意味を推測する練習である。それで辞書で調べる。定義というのは、実によく考え抜かれている。対象語の属性を抽象性よろしく端的に簡潔に言い表している。わたしたちは、語彙というものの属性を曖昧にしてはいけなかったのである。語彙の定義にこだわること、これが読解の第一歩である。
文章の読解とは、文脈に従って、語彙の定義を繋いでいくことである。それがそのまま観察という、何の先入観のない、読み取りを可能にする。
わたしたちは、「読み取り」に専念しなければならない。何の物語も紡いではならない。物語は雑念の最たるものだ。私たちは、勝手に何でも物語にしてしまう。わたしたちは、物語にしてからでないと理解できない頭にされてしまった。それを啓蒙したのは、テレビであり、今では御用新聞と堕してしまった、朝日、読売である。政党は、国民に白々しい、嘘物語を語りかける。国民は、勝手に美化して、物語にやたら感動する。
ワクチンという物語は、政府最大のペテン劇であった。物語は、時として、人を苦しめ、殺す。物語自体が、真実ではないからである。利権のため、嘘の物語を作り、その嘘を信じて殺される。そう、政府は平気で国民を殺す。見殺しにする。政府は、冷酷である。
さて、わたしは、読解について、一つの結論に達しようとしている、読み取り、それは観察である。先入観という物語は、観察の邪魔である。わたしたちは、常に、言葉の定義にのみ規定されなければならない。
定義の大切さは、数学において決定的であった。しかし、実は、国語においてもその重要性は変わるところはない。国語読解に問題のある人は、言葉の意味を軽視しているか、全く意に解しない、つまり無視して読んでいる。さらに言葉の定義を辞書を引く前に、文脈から、つまり、前後の文意の流れから、推測する癖をつける、その上で、答え合わせの感覚で辞書を引く、その時に、本来の定義は何かに意を払い、派生された意味と区別して、本来の定義にこだわることが大切である。定義はよくよく吟味することである。その簡潔で抽象的な言い回しが見事に対象の属性を過不足なく表現している。そのことに感動する。






