2025.09.02
🟦普通のできない人❗️の人生‼️
普通のできない人は、問題を先送りするのが常である。普通のできない人は、勉強を日常的にやらない。したがって、勉強の継続とは無縁である。普通のできない人は、周りの環境に流される。勉強に背を向けてゲームに没頭する。勉強しないのは、周りの環境が不十分だからと、何かと悪いのは環境のせいにする。普通のできない人は、当然内申が悪い。5がない。3が多い。普通のできない人は、勉強に集中することはない。それは勉強に興味がないからだ。時間を無駄にしてもそのことがわからない。時間はいくらでもあるものだと思っている。それは、勉強しないから、時間が足りない、という切実な実体験がないからである。むしろ特に必要に迫られてやることもないから、時間はいくらでも有り余っていると思っている。だから時間を持て余し、テレビを観たり、ゲームをしたり、漫画を読んだり、することがなければ、無限にスマホをいじって時間を潰すのだ。
これが中1から中2にかけて、勉強から脱落していく、つまり、人生の落伍者となる、多くの、ある意味、月並みな、普通の中学生の姿である。
何が足りなかったのか。人生と向き合う、真面目さだろうか。いややはりIQだろう。未来を考えて行動するのは、IQの高い人間のみに為せる技であるから。先のことがわかるから賢い人間は前もって困難を避ける道を選択するのだ。目の前の今しか見えない人間には、未来の難局を回避するという、知恵もない。なにしろ未来を想像できないのだから。未来を予測できるのは、知恵のある人間の才能である。しかし、全ての人間がその才能に恵まれているわけではない。未来が予見できないのは、動物である。動物の行動は、未来を踏まえての行動ではない。だから、食べ物を見れば欲しがり、オモチャを見れば遊ぶ。今の時間がすべてである。動物には未来は考えられない。未来は、言語によって可視化されるから。未来の難局を予測してそれを回避する行動ができるのは、言語を持つ人間だけである。思考しない、勉強しないのは、言語を洗練しない、低次元の言語だけで、生きようとすることであり、したがって未来の予測もない。行き当たりばったりの生き方である。それでいいのか、という話しである。あたかも動物と同列の地位にあるが如し。
思考言語の基本を学べる時期は、小学、中学、高校、大学である。小学では、受検をテコにして、中学では、高校入試をバネにして、高校では大学入試を契機として、大学では、大学院、国家試験、就職試験など様々なステップが広がる。これらはすべて言語論に修練したおかげである。そういう機会を、道を、中学で、ドロップアウトして、肉体労働しか収入の方法がない世界へ、不安定な身分、不安定な収入、保障のない未来、そういう社会へ、自己を打ち捨てる、そういう選択でいいのか、ということである。今、勉強しないで、ゲームに興じ、スマホに脳を支配され、日々の勉強を先送りし、部活を口実に勉強しないことを正当化し、そういう選択は、将来の不安定社会へのデビューを選択したことにほかならない、ということである。しかし、言語を知らない動物にはその重大な選択をしたことさえもちろん気づくことはない。なにしろ言語を操れないのだから。