2025.08.23
🟧数学の名手❗️竹の会‼️
竹の会は最初から、数学で有名となった。昭和60年10月渋谷の、元代々木町という、鄙びた(だから不便な)ところに、ひっそりと生まれた。生徒の1号は、代々木中学2年の3人の女子。まだ机も、椅子も、教材も何もなかった、9月のことであった。授業は10月から週2回ペースで始めた。授業が始まると噂を、聞いた親たちが競って竹の会に申し込んできた。たちまちクラスは3クラスに増え、私は、日曜日も朝から授業をした。評判は評判を呼び、噂は上原中学にも波及し、12月には、上原中学の男子が一人やってきた。竹の会の最初の高校受験は、昭和62年2月であった。代々木中学の3人娘は、都立駒場、都立目黒、国学院久我山に進んだ。上原中学の男子は、市川高校と青山学院に合格し、青山学院に進んだ。都立附属に進んだ子もいた。
東京での初めての受験であった。わたしは過去問を使って対策指導をした。
竹の会はなぜ数学が人気があったのか。
それはわたしの経歴にあった。中学までは、数学は得意科目だった。しかし、高校に入って落ちこぼれた。わたしがあまりにも勉強に素朴でありすぎたことが・・・、高校でも中学のままだった。わたしは級友たちが夢中で勉強することが、学校が受験受験で超速で進める意味がわからなかった。田舎者だったのだ。気がついたら、落ちこぼれていた。数学も英語もすべて卒業後独学で克服した。大学受験は、独学で合格したのだ。わたしの大学受験の過程は、超わからなかった数学を克服する過程であり、わけのわからなかった英語を克服する過程であった。旺文社の「数学解法事典」を頭から読んでいき挫折したり、旺文社の「英語の傾向と対策」を読んでもなにか英語がわからない科目としてすっきりしなかった。
わたしが数学の目を開いたのは、研数書院の「数学の技法IIB」だった。街の本屋で手に取りパラパラとめくる。数列のページを読んで、ハッとした。なんとわかりやすいのだ。迷わず求めて、早速読み始めた。5回は読んだか。
わたしは英語をどうしたものかと悩んだ。九州大の過去問を見ながら、果てしなく続く長文を見ながら、はたと思った。単語を覚えなきゃ。わたしは、赤尾の豆単を語呂合わせで覚えた。約1万語を目標にした。次に、原仙作の「英文標準問題精講」を20回ほど回した。単語は1万語を完全に覚えた。結局英語はこれしかできなかった。
数学は、蛍雪時代の中でZ会の問題集を見つけ、通販で買い、それをやった。主に数学IIBについて、1ページに1題、200題を扱い、よかったのは、1ページに問題と解答が凝縮されていたことだ。わたしは、赤鉛筆で線を引きながらとにかくひたすら読んだ。これも何十回も回した。
本番。数学は、100点満点の90点を取ったと思う。合格者の平均点は、50点ほど。英語は、120点満点の100点ほどか。ちなみに九大法の英語は、全問長文の下線部の和訳と英作文のみ。単語を覚えたわたしには有利。
国語は何もやらなかった。現代文は超得意である。幸いなのか、その年の国語問題は超難問。和歌が8首出て、その原典の歌集名を書かせる問題が出た。わかるわきゃない。知ってる歌集を適当に書いた。古今和歌集とか、新古今和歌集とか、万葉集とか、千載和歌集とか、金塊和歌集とか、貧窮問答歌とか、思いつくのを書いた。みんなどうせわかるまい。
わたしが、数学を教えるのがうまいと言われるのは、わたしの数学が全くの独学によるためではないかと思う。常に「わからない」「なぜ❓」と戦って来た。考え、定義に戻り、また考え、「あっ‼️」ということをどれだけ繰り返して来たことだろうか。答えはいつも定義の中にあった。いつか東大、しかも理系の西高生を指導したとき、彼が「わからない」と持ってくる、たいてい難問に、わたしはよく考え込んで、それが1時間近くかかることもあったが、「はっ❗️」と気がついたのは、やはり定義のワンフレーズであった。わたしがそれを示すだけで彼は「あっ、わかりました」と言ったものだ。
竹の会の今の英語の指導も、わたしの受験時代からのテーマであった、文型思考が土台にある。竹の会は徹底して文型から切り込む英語を指導してきた。それが受験英語だと思っている。
竹の会の数学は、筑駒、開成に通用した。いや渋谷幕張では、トップの成績と見ている。特待生合格のさらに上の特別特待生15人に選ばれたが、彼は、開成入学後もトップテンにあったことを考えると、やはりトップ合格であったあろう。
竹の会の数学は、もはやどこにも負けない、トップレベルにあると思っている。