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現代受験論🟧桜修館特化型塾へ

2025.06.12

🟧桜修館特化型塾へ
 過去問の徹底分析から合格のためのパターンをフォーミュラー化
 難関国家試験司法書士試験の難しさは、1日で10科目の試験が実施されることにある。特に、極端に時間制限された中で、書式問題を解くのは、ほぼ不可能とされる。
 この不可能を可能にする技術が、あらゆる事例のパターン化である。事例を見た瞬間にパターンを掴み、一気に書き上げる。
 かつてLECの司法書士試験講座の記述問題を制作してきた経験から学んだことである。
 🔷基盤となる算数の徹底訓練
 竹の会が思考型の塾と言われるのは、あげて算数に特化した指導体系を作り上げてきたことにある。
 もともと竹の会は、数学で名を馳せた塾であった。数学の名声を聞いて秀才たちが押し寄せたた。他の大手塾や有名塾に通いながら、数学だけ竹の会という人たちが押しかけた。
 🔷言語論的転回を読解原理とする国語指導の展開
 永く国語指導に携わる中から国語の研究を続けてきた。巷に出回る、夥しい方法論は諸子百家の様相でこれは誰も正解となる方法論などないことを物語っていた。近年、わたしは、石原千秋の著書を読むことが多く、そこから言語論的転回という概念に邂逅した。そこから関連書物を片っ端から読み始めた。もちろん言語論の気になる著書は拾い上げてきた。「読解力の地図」(犬塚美輪著)は優れた作品と思う。ここでスキーマという概念に辿り着いた。石原千秋もスキーマという言葉は一度だけ使っているが、それはさらりと触れる程度のもので、それが読解に及ぼす影響を重要には捉えていないようだった。
 わたしは、スキーマが読解の正体なのではないかとずっと疑ってきた。
 いくら読書しても読解力がつくわけではない。読書では、読解力をつけることはできない。ただ読書好きの人は、読解に有利なだけである。
 問題集を解くことで読解力がつくか。
 つかない。問題集は、学力を測定するために存在する。
 読解とは、本文を「自分で説明できる」ことである。本文に書かれてあることが、立体的に、自分の頭の中で、描かれることです。だから自分の言葉に引き直して本文の内容を説明できることです。つまり、頭の中に理解という層を通して「入れる」ことです。読書では読解力がつかないのは、それが、文字・文を目で見ただけで、理解という層を通していないからです。文を目で見るという繰り返しだけだからです。
 こうして読解とは、文を理解の層で濾過して頭の中に入れることを意味します。読解力のない人と言われるのは、文章を、文字を「見た」だけです。何も読めていないのです。見ただけです。読解とは、目で見るよりも、心眼で本質を見る、ということです。
 受験国語は、読解以外に、「設問分析」が課題となる科目のことです。設問の答えは、本文の中に存在することが前提です。いわば、本文には、解答がちりばめられています。ただし、答えは、設問の指示にしたがって、解釈して、本文の中に「ある」解答を見つける必要があります。答えの探し方は、設問に書いてあります。といってもそれとすぐわかる書き方はしていません。設問を分析したら「わかる」ように設問が作られているのです。設問は本文の中にある解答を絞り込むための、重要なヒントが隠されているのです。答えがわからないのは、設問を理解していないからです。設問が何を要求しているのか、あなたの本文理解と照らし合わせて見てください。
 設問の答え方の大前提
 あらゆる問題は本文からの抜き出しにほかならない。あなたたちが、本文の抜き出しで迷うのは、本文を理解していないか、設問を誤解しているかのどちらかです。
 出題者は、設問文に、本文のある特定の箇所だけが正解になるように、必然的な作り方をしています。答えが2つあったら、その問題は問題として失敗です。ですからこれしかない、この1つしかないという客観的な根拠を必ず用意しています。恣意的に、相対的に答えが1つに絞られる、そういうことにしない、するはずがないのです。昔の出題者には、偽の選択肢、騙すための選択肢をわざと作っていました。しかし、それで騙される受験生があまりいないであろう、難関国立大学の問題では、もはやそういう問題は作らないのではないか。
 出題者は、消去法が使われることは前提で、2つに絞られることは予想して、その判断は、必ず本文を根拠に必然性のある正解を作るに違いない。
 さて、である。ここで、言語論的転回の登場となる。実体があろうがなかろうが、主張の成否は、言語として成り立つか否かである。だから選択肢には誤りがないのに不正解とされるものも当然ありうるのである。だから、言語論として、成り立つか否かでは選別できないのは当然なのである。そうではなくて、本文に根拠があるか否か、これに尽きるのである。言語論は、抽象的なものを抽象的なものに言い換えるということを普通にやる。いわゆる煙に巻くというヤツである。抽象度の違いから言い換えは自由にできる。この時、言葉を対照するだけではおそらく同一性・同一範疇かは判断できない。抽象度の判断は、抽象の定義から演繹できる。抽象とは、共通項で括ることである。あるいは包摂関係で広げることである。メルクマールは、明らかである。共通点、包摂関係である。これらが、判断の基準となる。
 国語の勉強は、課題本文から、抽象化の過程を学ぶことである。決して、読書ではないし、問題集を解くことでもない。
 🔹消去法について
 選択肢問題では、消去法を使うしかない、そう言ってきたのは、石原千秋でした。いや、確かに、そうなのかもしれない。しかし、消去法を使って、いつも判断に、迷う選択肢が必ず2つ残るという経験はないですか。石原千秋もこの事実を認め、どちらにするかの判断は、なにか曖昧なことを言っています。
 消去法で解けないのは、選択肢に誤りを含まないからです。誤りを含まないから正解とは限らないからです。誤りを含まない選択肢が2つあるわけです。つまり、これが消去法の究極の限界です。こうして消去法では、どちらか決められない選択肢が必ず2つ残る。
 つまり、消去法では正解は出せない、というべきなのです。石原千秋は飽くまでも消去法有効前提だから詰まるのです。
 消去法の限界は、読解問題の解き方の本質に回帰すべきことを暗に示唆する。本来の、本文の理解からしか解くことができないことを教えている。
 あなたの頭の中に、解答用紙を用意してください。そして、その頭の中の答案用紙をあなたの考える解答で埋めていってください。それが受験国語の勉強です。
 あなたが頭を使うのは、設問(出題者の意思)です。出題者の出題意図、何を聞きたいのか、ここは、誤解なく押さえなければなりません。設問の、冷静な、客観的な分析が必要です。なぜわざわざこのようなことを聞くのか、それは読んだだけでは分明ではないからです。わかりきったことを聞くわけがないじゃないですか。読んだだけでは「わからない」、しかし、客観的に理解すれば「わかる」場合です。受験国語には、必ず正解があるのです。その正解は、本文の中のどこかに潜んでいる。それとわからないように息を潜めている。その発見は、主観的なものではない。感情でももちろんない。なにしろこれが正解というのですから、曖昧な根拠ではない。必ずこれしかないという、客観的な根拠であるはずです。客観的な根拠は、あなたたちの本文理解の中にあるはずです。もういい加減に、本文の傍線部の前後にあるとか、巷の受験参考書のさまざまな方法論は、無視しましょう。
 ただ設問には、客観的なヒントが必ずあります。というか答えを導くことになる助言があります。それを見逃さないでくださいね。その上で、あなたの理解の中から答えを見つけてくださいね。
 受験国語の設問には、正解が一つ必ずあるという約束から、恣意的にしか導けない正解はない、作ってはならない、という前提条件があるのです。だからそこから正解は絞り込むだけの何かが必ずある、のです。
 出題者も、当然本文を読み、理解し、その上で、設問を作っています。だから出題者の意図を知るには、本文の理解しかないのです。問いは、出題者が本文をどう理解しているのか、暗示していることもあります。

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