2025.08.22
🟪国語読解法の竹の会版テキスト‼️
同じ事実を説明するにも、言語の使い方で、どうとでも説明できるわけです。だから言語の選択、組み合わせによっては、意味を取る側にも、様々な理解のされ方がされることになる。例えば、ダンベルには、on the kneeという、ダンベルをセットポジションに持っていくやり方があります。今では、動画がいろいろ出ていますから、どういうものかは、映像で見ることができます。しかし、映像を見るとしても、その時に付加されるコメント、言葉は、似て、微妙に違います。説明が食い違う場合もあります。「腕は伸ばす」といいながら、映像を仔細に観察すると、むしろ直角に一旦曲げてから伸ばしている。しかし、どの映像を見ても、直角に曲げている「事実」には決して触れない、というか、無視しているのです。中には、確かに、伸ばし切っているな、という映像もありましたが、それは一例だけでした。このように、言葉というのは、事実を写真的に正確に表現しきれていない、のが、むしろ普通なのです。これは国語読解についてもそのまま言える、ことです。国語読解文で、表現された内容が、そのまま表現される前の事実を正確に反映していないことの方がむしろ普通と考えた方がいい。言語化された時点で、もはや事実とは離れた、言語が作った世界の話しになる。だから私たちは、筆者が構築した言語世界の中で考えるしかない。本来の事実がどうであったかなどと考えてはいけないのである。筆者は、言語で生の事実をいわば切り取ったということです。私たちは、切り取られた言語世界の中だけで、解読しなければならない。事実が本当はどうであったかなどは関係ないのである。
さてそうなると、筆者が筆者の価値観(偏見)で構築した世界のルールでしか、私たちは、正解を得られないことになる。しかも、出題者は、筆者の価値観を解釈して問題化するのだ。そうなると出題者の解釈を理解しないと答えられない。出題者が筆者の世界を出題者の偏見で解釈して問題化するのだ。筆者の世界と出題者の解釈された世界がそれほど齟齬を生むことは考えられないにしても、出題者は決して筆者の代弁者ではない。わたしたちは、出題者の解釈した言語世界下での読解を求められているのだ。
言葉は、実体を、事実を、すべて言語化しているわけではない。養老孟司は、「言葉になるのは、事実というものの氷山の一角である」と言っている。
わたしは、国語読解の方法について、いわゆる言語論的転回という哲学の理解が、前提になることを、暗に、訴えております。そこには、言葉というものの、なんとも厄介な本質があります。そもそも言葉はウソをつくためにある、とわたしは思っています。政治家、官僚、学者、みんな嘘つきですよね。言葉をこれほど軽視する人種はいない。言語化の苦労を知っていれば、軽々にウソはつけない。ウソをつくのは文系の人間が多いのかと思うが、新型コロナワクチン騒動のときは、医師がウソつきでした。いや医師も病を長引かせ、無駄な薬を投与し、糖尿病などは悪化させる治療を平然とやっているわけで、ウソをつきまくっている。言語は、ウソをつく道具である。製薬会社は正当な治験をしたとウソをつき、学者はそれに手を貸して、見返りとして、多額のカネをもらう。それが社会の仕組みです。
言語論的転回は、言語をそのまま信用しない、懐疑的な精神をもって、世の中を見る目である。
国語読解とは、言語論的転回を我がものとして、我が思考の戒めとして、国語文章を読み解く態度をいう。