2025.07.27
🟥現代指導論 1 教えるの功罪
教えることは、教えられる側の思考を停止させることになるという矛盾を孕んだ行為である。
教えるの内容は千差万別
わかりやすい説明を売りにする塾がありますね。
ヒントだけ与えるというやり方もあります。
問題は、実は、そういうところにはない。教えられる側の理解の段階にある。ヒントだけで済ますには、教えられる側が、ヒントさえあれば「わかる」理解段階に達していなければならない。いくらわかりやすく説明しても、理解の段階が未熟なら、意味はない。
こうして、重要なのは、子どもの側の理解のステージだということがわかる。
わたしは、指導に際して、問題を説明することが、先決ではなく、今この子の理解段階は、どのレベルにあるかを問い、この問題が、その子のステージにはないと判断すれば、その問題は没であり、それよりもこの子のステージを上げることが先であり、ステージアップのための、処方を優先するであろう。
竹の会の指導とは、畢竟理解の土壌を作ること、それをステージと呼ぶなら、そのステージを自ら問題を考える過程を通して、構築していく、システムを構築し、そのシステムに従って、段階をあげていくこと、にほかならない。
こうして、竹の会には「教える」という概念はない。指導とは、竹の会だけに特別の意味を付与された概念である。理解ステージを前提に、説明するから、説明は、簡潔であり、また、ステージに乗っとったものとなる。例えば、竹の会では、ミクロマクロという思考枠が考案され
その枠組みで、解へ至る道筋を構築するので、説明は、その枠組みを前提としたものとなる。
竹の会は、小学低学年から、計算を通して、思考の抽象化を進める。また割合は、小学生には、理解困難なものであり、だから竹の会はミクロマクロ法という思考枠組みを開発したのだ。竹の会の小学生は、苦労なく割合をマスターし、それを梃子に、様々な抽象概念へと思考を広げていった。