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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

都立日比谷へいく/小石川、桜修館へいく/何を培っているのか

2016.08.18

 おはようございます。今日は朝は雨が降ったようです。午後からは曇りの予報です。台風は結局目前で北に逸れて立ち去りました。心配していましたのでまずはほっとしました。今日はもう18日で、一気に中旬を駆け抜け来週は下旬、そして再来週は、8月の終わりです。

 渋谷Aというのは、竹の会では、中心的な指導訓練の場ですが、最近感じているのは、いや去年の小6も実はそうだったのですが、どうも7時間という緊張に耐えられない、それでなにかと口実を設けて時間を潰す、待っている間にもう夢中になっておしゃべりをする、仲良しになるのはいいことですが、塾と言うことを忘れてもらっては困ります。特に、女子に見られる、席を離れてのおしゃべりです。わたしが指導中でもお構いなしに好き勝手におしゃべりをしているわけで、これは女子だけというわけではない。わたしも再三注意はするのだけれども一向に聞く気配はない。中学生もいっしょになっていることもあり正直、これはわたしの理想とする、静かな環境での指導というのとはほど遠い。どうも子どもたちにはそういう静かな環境ということの意識というか、大切さというものが軽い位置にあるのかなと思う。正直竹の会の理想とは相容れない、そうした態度を考えるに、わたしに再三の注意をされているという自覚のある子は自主的に退塾を申し出てくれればと思うことがよくあります。わたしから言えば傷つくかもしれないが、心当たりのある子が自主的に退塾するというのであればこれは問題なかろうかと思います。心当たりのあるみなさんはそれなりの覚悟をしておしゃべりをしてください。

 わたしは余程のことがないかぎり、激怒するということはない。それでふつうに注意をする。しかし、親しくなると、子どもいうのはなめてくる、だから平気でわたしの注意を無視する、聞き流す。親しさ、やさしさというものを勘違いするのである。やさしくするのは静かな環境で熱心に勉強しているからである。やさしく接することをなにをしても許されると勘違いしてはならない。それでは竹の会という塾がまだわかっていない、わたしの真の気持ちがわからないのであれば、どうか自主的に退塾してほしい。自分がそれに該当するかは本人がいちばんわかっているはずです。静かな環境を壊すのなら竹の会にはいてほしくない。近頃、教室の中が騒然とすることがあり心を痛めています。ひとりひとりが勝手におしゃべりをすれば全体ではもう騒音です。特に、指導が終わる8時には中学生も小学生も一緒になってわっとしゃべり出す。大声でそれぞれが話す。以前の静かに帰り支度をしてじっと指示を待っていた子たちはもうどこにもいない。

 最近、私立受験をめざす、進学塾に通う小5の指導をする機会がありまして、進学塾で鍛えられている子というのが、よくできる、ということに感心しました。正直な感想です。竹の会の割合レジュメをすごい速さで吸収していきます。ただ気になるのは、やはり進学塾の子というのは、昔からそうなのですが、ベタな問題には強いのですが、少しひねりが入ると途端に思考停止するのは変わらない。気になったのは、「公式を使った」という言葉でした。そうでした。中学受験の子というのは、公式を覚えていて「あてはめる」ということをやるわけです。ところが、ちょっとひねった問題というのは、公式も簡単にはあてはめられないわけです。そもそも公式というのは算数には害です。思考停止させてしまうからです。問題を見るとすぐ公式をあてはめようとしか考えないのです。そのことに心を奪われて問題を具に観察するということを怠りがちです。平成27年の桜修館合格者には、灘や開成といった最難関の、さらにその中の難問ばかりを解かせた。わたしももちろん解いてからレジュメにする。そしてどんな難問を解くときも公式なんかを意識的に、意図的に使ったことは一度もありません。すべて自由な思考です。それがわたし流です。

 公式というのは、数学のように記号言語を論理的に組み合わせていく科目では、有効です。いや三角関数でも微積分でも定義から導き出された公式というのは、覚えておいて使わないと、とても効率が悪い。しかし、算数は定義と自由な思考ができる、すばらしい科目だと思うのです。それに昨今の灘や開成、麻布の問題には公式をストレートに使って解ける問題なんてない。徹底して思考力勝負である。

 巷の受験塾が、公式を教えているのは、相変わらずで、やはり昔から変わらないのだなと思いました。ベタな問題を公式でのりきってきた子というのは灘、開成級には育たないと思う。必ず伸び悩む、壁に突き当たると思う。

 ひるがえって考えてみよう。ふだんの勉強とはなにを培っているのか、ということである。試験では必ず未知の問題に遭遇する、初見の問題に出会う、そのことを前提して、想定して、勉強するとしたら、ふだんの勉強というのは、未知の問題に出会ったときに、どう解決の糸口を見つけて、なんとか正解への道を見つけること、そういう訓練の場でなければならないであろう。難問に、未知の問題に、そのとっかかりを探して、なんとか解決の糸口を見つける、そういうことを普段からしていく、そういうことではないか。そのことに思い到らず、わからないとなるとすぐ説明を求めてくる、こういう態度では、本番において初見の問題に出会ったときにどうやって正解に辿り着くか、という訓練にはならないわけです。やたら聞いてはいけないのは、そういうことをやっていては何も培われないからです。ふだんからやたら息抜きする子、おしゃべりする子というのも、こういう本番を想定した勉強から逃げているわけであり、結局負けることが見えています。

 

 

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